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実在しない作家が実在する  続きの続きの続き
前回

 (先週土曜の話:)
 新宿TSUTAYAで『黄金』を借りてから、「電脳コイル」のことを考えつつ、三越のジュンク堂に寄った。新宿まで出て来ることがめったにないので、なにか1冊本を買って帰ろうと思った。そう決めると、『バートルビーと仲間たち』のことがあたまにあったから、フアン・ルルフォの本が欲しくなった。
 ビラ・マタスのメモるところによれば、あのとんでもない『ペドロ・パラモ』(→感想)を書いたルルフォがほかに発表したのは短篇集1冊きりで、あとは薄暗い事務所で30年のあいだ筆耕として働き、生涯を終えたそうである。なんというバートルビー。
《「どうして書かないのか、ですって?」一九七四年、カラカスでルルフォはそう言った。「わたしにいろいろな話を語って聞かせてくれたセレリーノおじさんが亡くなったからなんです。おじさんはいつもわたしを相手にしゃべっていました。ですが、とんでもない嘘つきで、おじさんが話してくれたことはすべて根も葉もない作り話だったんです。ですから、当然わたしの書いたものもすべて大嘘です。」》p10

 ルルフォは小説の作者なのか、登場人物なのか。もちろんここでは両方になっている。そんなわけで、エレベーターで7階まで上がり、くだんの短篇集、『燃える平原』(1953)を探してみた。
 しかし「海外文学」コーナーの「ラテンアメリカ」棚を隅から隅まで見ても、見あたらなかった。土曜の9時過ぎのジュンク堂はさすがにすいていた。もういちど、ぜんぶ見直してもやはりない。だめもとで暇そうなバイト風の店員に訊いてみると、「担当の者が確認して参ります」。それでしばらく待っていると、あきらかにバイトではなさそうな別の店員が「これですね」と『燃える平原』を右手に持ってあらわれたので軽く感動した。『燃える平原』の表紙は赤かった。杉山晃訳、水声社刊。

燃える平原 (叢書 アンデスの風)燃える平原 (叢書 アンデスの風)
(1990/12)
フアン ルルフォ

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 日曜の午前中、カーテンを閉め切って映画『黄金』を見た。
 メキシコで食い詰めた貧乏なアメリカ男ふたりが、安宿で知り合った老人の手引きで、奥地のさらに奥へ出発する。一攫千金、金鉱を見つけるためだ。自称・経験豊富な老人は、はじめから「金は人を狂わせる」とうそぶいている。「奥地」といっても、メキシコのそれはひたすらだだっ広い荒れ地が続く。過酷な日差しと強風。列車強盗の山賊も襲ってくる。笑えるほどの困難を乗り越えて、3人はついに金鉱を発見、超人的な働きで砂金を集め続ける。
 ここまでで映画の約半分。あとは予想通り、金を手中にした3人の変化が描かれていく。彼らが何をしてるのか怪しんでやって来る、近くの町の男(秘境なんだけど)。またもあらわれる山賊。山賊を撃ち殺す警察(軍隊?)。インディオのもてなしを受ける老人、狂っていく男。で、金の行方は。
 スタッフロールには、"based on the novel by B. Traven"の文字はあっても、「ハル・クローヴス」の名前は見つからなかった。当然だ。彼は一協力者でしかないのだから。それでも、「ビッグ・ベティとミス・キューティ」、『バートルビーと仲間たち』というふたつの小説から裏話を知った私には、表面的には存在しないひとりの作家の影が、映画の全体を確かに覆っているのを感じた……
 って、そんなはずない。映っていない影が見えるとしたら、ただの考えすぎである。それに、白黒の画面に映るメキシコの日差しはほんとうにまぶしい。太陽に容赦なく照りつけられるメキシコの大地の上、身ひとつで乗り込んだ男たちが、銃の一発での殺したり殺されたりを、目撃したり巻き込まれたりする。面白かった。

 それで今度は『燃える平原』を開いてみると、これもメキシコの話だった。ルルフォがメキシコ生まれなのはさすがに忘れないが、そこを自覚して選んだわけではないので意外な気がした。
 
 こちらは、映画『黄金』で“よくわからない連中”としてひと山いくらの扱いを受けていた、メキシコ原住民の側からの話である。(メキシコのインディオ、という言い方でいいんだろうか?)
 どの短篇も、強烈に乾いている。日差しと風と砂埃。『黄金』のおかげでイメージしやすかった。そんなメキシコで、登場人物はみんな貧しさにあえぎ、不運に打ちのめされ、血や涙をあふれるほど流す。それでも舞台背景のせいか、湿っぽさのひとかけらもない。
 多くの短篇で、人はかんたんに人を殺す。それでも「殺す」ことが軽く扱われるわけではない。殺人にいたる事情は、詳しく書き込まれなくても登場人物に重くのしかかっているし、殺した者は警察(軍隊?)によってまたあっさり銃殺される。非情な決済。
 ハードボイルド、と言っていいのかわからないが、たとえば、一家をみな殺しにして逃げる男と、それを追いかける生き残りだとか(「追われる男」)、病気の兄を無理やり教会まで引っぱっていった妻と弟だとか(「タルパ」)、35年前に犯した殺人の科でついに捕まりそうになった老人の、文字通り必死の命乞いだとか(「殺さねえでくれ」)が、思想やテーマを語るためでなく、ただひたすら即物的に述べられていくのを読んでいくと、この即物的な短篇の数かずが、一転、どんな場所のどんな人間の話であってもおかしくないような広がりをもっているように見えてくる。これは考えすぎではないと思う。
『ペドロ・パラモ』ほどの大仕掛けはなくても、たしかにあの長篇とこの短篇集は地続きだなあと思われたことである(発表は『燃える平原』のほうが2年早い)。
 むしろ、これを読んだことで、『ペドロ・パラモ』の大仕掛けも、いわゆる「大仕掛け」ではなく、生者と死者の入り交じったあのおかしな世界を、ルルフォは即物的なつもりで書いたんじゃないかとさえ、一瞬考えた。
 ここで、今日、最初に『バートルビーと仲間たち』から引用したルルフォの言葉をもういちど。
《「どうして書かないのか、ですって?」一九七四年、カラカスでルルフォはそう言った。「わたしにいろいろな話を語って聞かせてくれたセレリーノおじさんが亡くなったからなんです。おじさんはいつもわたしを相手にしゃべっていました。ですが、とんでもない嘘つきで、おじさんが話してくれたことはすべて根も葉もない作り話だったんです。ですから、当然わたしの書いたものもすべて大嘘です。」》

 あんた、すごいよ。

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