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実在しない作家が実在する  続き
バートルビーと仲間たち

前回

 エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(2000)は、変な本だ。
 作家でありながら筆を折った人間、というのは古今東西に意外なほど多くいた。理由はさまざまだが、彼ら、書くのをやめた作家・書けなくなった作家を「否定[ノー]の作家たち」としてリストにする、そんな意図のもとにこの本は書かれた、ということになっている。要になる存在が、ハーマン・メルヴィル不朽の短篇の主人公、筆耕バートルビーなのだった→参考。バートルビーがカナメって、「おい」と言いたくなる。そして、読んでいるあいだもずっと「おい」と言いたかった。冒頭、語り手は、「現代文学に見られる否定の迷宮」を散歩して、ひとりひとりの事情に光を当てていくことに決める。
《[…]そうすることで、書くというのがどういう行為なのか、それはどこにあるのかと自らに問いかけ、また書くという行為の不可能性について探り、世紀末の文学が置かれた予断を許さない――それだけにまた極めて刺激的な――状況に関する真実を明らかにすることができるかもしれない。
 来るべきエクリチュールは、否定的な衝動から、否定[ノー]の迷宮からしか生まれてこないだろう。》木村榮一訳、p5

 この構想からして、すでにもっともらしい冗談のように聞こえる。これは、「働かないことを通して労働の意義を問う」のと、どの程度ちがうのか。あまつさえ、これは小説であるので、じつは語り手じしんも書けなくなった作家、もとい「否定の作家」ということになっており、彼によってメモされる、沈黙した作家についてのエピソードは、どこまで本当なのか、どこから創作なのか、よくわからなくなっている。
(この本を紹介する人間の誰もが触れずにいられないらしいひとコマは、この語り手が「サリンジャーと同じバスに乗った」と言い張るところである)

「否定の作家」として分類される作家(それは作家なのか)には、ソクラテスやランボーもいる。あの『ペドロ・パラモ』を書いたフアン・ルルフォが、そのあとの30年間、何も発表せずに死んだとは知らなかった。これは本当らしい。
 しかし、つぎつぎに列挙される「否定の作家」の大多数は、私の場合、名前も聞いたことがなかった人たちだった。極端なのになると、語り手のむかしの友達だったりする。するとだんだんおかしな気持になってくる。
 ……これまで存在を知らなかった作家の経歴がスケッチされ、その作品が語られて、「彼もまた、書くのを放棄したひとりである」と説明される。ときどき、放棄した理由が語り手によって格付けされる(「自殺」はもっともランクが低いらしい)。いや、おれ、そのひと知らなかったから。そう言いたくなる。
 
 “知らなかった作家が、書くのをやめていた”

 ここに発見はあるのか。私からすれば、“いなかった作家が、やはりいなかった”のと同じである気がする。一貫して、微妙な調子で小説は進む。つまらないというのでもないが、かくべつ面白いというのでもない、変な気持で私は『バートルビーと仲間たち』を読んでいった。何度も「おい」とつぶやいた。やっぱり変な本である。
(ここに柴田元幸の評があるけど→新潮社「波」2008年3月号より、めずらしく「ほめ切れていない」気がする。どうだろう)

 で、『ラブストーリー、アメリカン』収録のバリー・ギフォード「ビッグ・ベティとミス・キューティ」で触れられていた、B・トラヴェンの話だった。前回引用した部分をもういちどコピペする。
《ロロ・ラマーは、エジプトシティーからトロカデロアイランドへ車を走らせながら、B・トラヴェンのことを思った。生きているうちは、出生、本名、家系など、人生の細部をなんとも秘密にしたがった作家である。小説の愛読者だったロロは、いまでもトラヴェンの作品のたいへんなファンだ。『シエラマドレ山脈の財宝』、『死の船』、『綿摘みたち』など。ジャングルシリーズでは、『モンテリアへの進軍』、『ジャングルからの将軍』、『政府』、『カレッタ』などなど。
 トラヴェンが周到に経歴を隠そうとしたのも、然るべき理由があった。生れ故郷のドイツでは急進派のジャーナリストで、活動家でもあったので、指名手配されたのだ。メキシコへ逃れ、一度ならず名を変え、商船の船員になったりマホガニーの森で働いたりして、最後には結婚し、長編短編作家としてメキシコシティーに落ち着く。トラヴェンと妻は、そこでふたりの娘を育てた。ジョン・ヒューストン監督がハンフリー・ボガードの主演で『黄金』を映画化したとき、トラヴェンはかなりの有名人になった。もっとも映画製作の技術アドバイザーを務めたあいだも、ハル・クロウヴという名のトラヴェンの友人という仮面をかぶってはいた。》p62

 この人は「正体を隠そうとした」のであって、「書くのをやめた」わけではないが、『バートルビーと仲間たち』の終り近くでなかなか思わせぶりな紹介がされている。自分を消そうとした意志において、彼も「否定の作家」なのらしい(ふところが深いジャンルである)。こちらではB・トレイヴンという表記になっていた。綴りは"B. Traven"。
《[…]彼の来歴に関してはデータがないし、データが手にはいる可能性がないことが本当のデータなのだ。過去を一切否定することで、彼は現在を否定した、つまり現存在を完全に否定したのだ。トレイヴンは同時代の人たちにとってさえ存在しなかった。彼はきわめて特異な否定[ノー]の作家であり、あれほどまで強く自らのアイデンティティの創造を拒否したという行為の内には強烈な悲劇性がひそんでいる。
「世に隠れたこの作家には」とヴァルター・レーマーは書いている。「アイデンティティが欠如しているが、このことのうちに近代文学の悲劇的な意識、エクリチュールの意識が要約されている。エクリチュールが不十分であったり、不可能であることが明らかになると、それを表明することが基本的な課題になる」》pp208-9

 こういう紹介と、amazonでの検索結果(→96件!)が私のなかでうまく折り合わず、その折り合わない具合が面白いのだが、「翻訳作品集成」で調べてみると、邦訳もあった(→これ)。
 
 大丈夫。この作家は実在している。していた。
 
 しかし私は、何に安心しているのだろう。

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