趣味は引用
長嶋有『夕子ちゃんの近道』(2006)
夕子ちゃんの近道
新潮社

《「君は? 失恋でもしたの」唐突に瑞枝さんは尋ねてきた。
「いやまあ、いろいろあって」
「いろいろってなに」
「挫折したんですよ」といってみたが瑞枝さんは深刻な顔をしない。
「いいなあ、挫折できて」私なんか明日試験で、落ちたら午後から打ち合わせだよ、という。いいなあ、という言葉は最初から準備していたかのようだ。》p28

 古道具屋「フラココ屋」の2階、倉庫として使われている6畳間に居候をはじめた「僕」と、まわりの人びとを扱った短篇連作。びっくりするくらい面白い。

 登場人物は多くない。フラココ屋の店長。家主のじいさん。その孫である、朝子さんと夕子ちゃんの姉妹。フラココ屋の常連(でも買わない)瑞枝さん。道路向かいのバイクショップ店員。
 店番の仕事に徐々に慣れていく「僕」が、これらの人びとを少しずつ見知っていく過程を追って、読んでいる私も、この人たちに馴染んでいく。
 美大生の朝子さんが作っているのは何なのか。公然の秘密となっている、夕子ちゃんの趣味とは。瑞枝さんの生活。短篇ごとに移っていく季節。
 読んでいて、もうこのままずっと読み続けていたいと思う種類の面白さなのだが、いったい何が面白いのか。
(あ。もうひとり登場人物がいた。店長の古い友人で、フランス人でありながら、店名を「フラココ屋」とするセンスがどういうものかを理解し、それを「恥ずかしい」と断ずる、フランソワーズという女性)

 もちろん、「僕」によって観察されるのは日常的なうえにも日常的な出来事ばかりで、いわゆる小説っぽい大事件はひとつも起こらない、ということなんかは予想の範疇だし、だけど日常のなかにだって大事件はある、みたいなことだって、ページをめくる前からわかっている。生産性と功利性の世界からちょっとはみ出した人たちの生活が「おだやか」とか「ゆるやか」と形容される雰囲気に包まれて上手に描かれてるんだろう、という見込みは、じっさい読んでみると、たしかに当たる。でも、当たりかたがちょっとちがうのだ。何が面白いのか。
 文章が面白い、といったら身も蓋もないだろうか。周囲の建物の位置関係、フラココ屋の店内の様子、夕子ちゃんの鞄につけられたマスコット、などなどのディテールが、「そうくるか」的な比喩を織り交ぜ丁寧に描かれるいっぽうで、「僕」の背景はほとんど不明なままだ。不思議なバランス感覚で小説は進む。小さいもの、どうでもよさそうなことが、次から次へと的確な言葉にされる。ひとつひとつは小さなヒットでも、それがどこまでも続くと、印象は変わってくる。いつのまにか尋常ではなくなっている。たとえばこういう部分に、「おだやか」でも「ゆるやか」でもない過激さがあると思う。
《駅前に降りると、コンドルは飛んでいくみたいな民族音楽風の曲を演奏するグループがいたが、誰もが素通りしている。僕も脇をすりぬけて、うろ覚えの道をたどっていく。店長の家はけっこうな邸宅だ。[…]》p146

 「コンドルは飛んでいくみたいな民族音楽風の曲」。
 曲についてこれしか書かれていないのは、細かい限定をしないことで、読者のおぼえる「あるある」の間口をひろくしておくためではないし、「つまりは取るに足らない曲だった」という「僕」の判断を示すためでもない、と思う。
 いや、もしかしたらそのどちらのつもりも少しはあるのかもしれないが、なによりここでは、それ以上に細かく書く必要がないから、書かないという基準がしっかりあって、それゆえこれだけで済まされている、という感触をつよく受ける。それはほとんど、頼もしいくらい確固とした基準だ。
(なにしろ、「コンドルは飛んでいく」というカギカッコさえないのである!)

 基準が先行し、それに従って「書くに値するもの/そうでないもの」をふるいにかけていく、というのではなくて、屋外の水道につながったホースの先から水が出る様子や、フラココ屋のコンクリートの床に薬品を塗るモップの動きなんかが最小限の言葉で(かつ、言葉を尽くして)説明されたりする積み重ねのすえに、何となく見えるようになる基準が、この小説にはある。超低空飛行ながら、すみずみまでピントが合っている。そのおかげなんだろう、読んでいると、どんどん気持がよくなる。あたまのなかの風通しがよくなるというか。
 だからまとめていうと、この小説の全篇を通してかたちにされているのは、まわりの人たちと近づきつつも微妙な距離を保っている「僕」の、ひとつの態度なんじゃないかと思うのだけれども、「まとめたから、なんだ」という話でもあるので、もっとぐずぐずと実物を引用しておきたい。
(うえに書いたように、積み重ねがあってこその面白さなので、ここで部分だけ書き写しても面白いのかどうか、すでにこの小説があたまのなかに積み重なっている私には判断しかねるが、これは事情により寝込んでいる瑞枝さんを「僕」が見舞うところ)
《「なにか、食べ物とか持ってきましょうか」
「ううん、一人でやる」瑞枝さんは起き上がった。
「帰ってくれる」でも、といいかける僕を制していう。
「弱っている人は、人前に出ない方がいいんだ」こないだ昼間にテレビで昔のガメラをやっていてね。ついみていたら、やっぱりガメラも海底で一人で傷を治していたよ。
「そりゃ、ガメラはそうかもしれないけど」
「いや、そうじゃなくて私が嫌なんだ」といった後で僕の顔をみつめた。
「嫌っていうのは……そういう嫌じゃなくて。病気で弱っている人をみると、可哀想だし、仲のいい人なら心配だけど、でもそれがどんな親友でも、少しだけうっとうしいじゃない」そして本当は、少しじゃなくて、すごくうっとうしいの。》p96

 たしかに発されている言葉が、カギカッコを平気で越えていくのも面白い。次は、朝子さんの卒業制作を見るためにみんなで大学を訪れて、ついでに学食に寄ったところ。
《トレーを持って列に並び、広くて見通しのいい厨房にいるおばさんから総菜や御飯をよそってもらい、お茶の出る機械に茶碗を置いて、無料のお茶を注ぐ。それらを載せたトレーを水平に持ち、振り向いて少し静かに歩く。皆のいる方へ。そういう動作をかつての自分も繰り返していた。大学生活は、なんのことはない、そんな動作の繰り返しだった。》pp119-20

 何気ない顔をして、ぜんぜん無駄な言葉がない。なかなかこうは書けないだろう。とくに「皆のいる方へ。」のひとことが効いていると思った。
 最後は、たぶん半分以上がフラココ屋の店内で進むこの小説で、美大に行くのと並んで珍しい、相撲観戦に国技館まで行ったエピソード。まだ時間が早いので館内をうろうろしている。
《廊下に出るやまた見覚えのある元力士と行き違う。スタッフジャンパーのようなものを着ているが、今のはもしや、元貴闘力のなんとか親方ではないか。気付いて
「貴闘力が」馬鹿みたいに指差してしまう。店長はよくみていなかったくせに頷いて
「そういえば俺、昔、競馬場で貴闘力をみたことあるよ」といった。
「へえ」どんなだった。瑞枝さんが尋ねる。いやいや、と思う。過去の貴闘力なんかではなくて、本物の貴闘力が直前までこの目の前にいたのに。
「え。他の知らない力士と三人くらいでいてさ。なんか、普通の服きてた」それで? といわれて店長は、その質問とは無関係に小銭入れを取り出した。
「それでって、なんかすごい札束で買ってたような気がする。馬券」
「あなたの回想は、まったくわくわくさせられないね」瑞枝さんは昔からそうだったという感じでいって、売店でビールをもう一缶買った。》p178

 どういうわけか私は「えええ」と声に出していた。なんだろうこの会話。

 なお、この小説が大江健三郎賞の第1回受賞作であるのは知っていたが、自分で読んでみて、ちょっと大江の選評まで見ておきたくなった。なのに講談社のサイトからでは、この賞のことがちっともわからない。どうかと思う。
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2010/09/28(火) 14:18:06 | 粋な提案