趣味は引用
大江健三郎『取り替え子』(2000)
取り替え子(チェンジリング)
新潮社

 読んでから、ひと月半経過。えらい間があいたけれども、宙返りから続く大江の感想。『取り替え子』はこんなふうに始まる。

 主人公の長江古義人[ちょうこう・こぎと]は小説家で、数年前にスウェーデンの王立アカデミーから大きな文学賞をもらっている。妻の兄は、高校以来の友人、塙吾良[はなわ・ごろう]で、こちらは日本のお葬式や暴力団を題材にした映画の監督として名をなしながら、唐突にしか見えない投身自殺を遂げた。以来、古義人は深い鬱状態にある。

 であるからには、この小説、古義人=大江健三郎、吾良=伊丹十三、として読まないのはほとんど無理になる。
 それと同時に、「ほとんど無理」の「ほとんど」にしがみつき、古義人は古義人、吾良は吾良、どちらも架空の人物として読まなくてはいけないぞ、という警戒心もめばえる。たとえ実名であったとしても、小説の読みかたはそうでなくてはならないはずだから。
 加えて、古義人が過去に書いた作品としてあげられる書名は、実際に大江健三郎が書いた小説のタイトルを改変したもので、この細工は、上記の「古義人=大江」と「古義人は古義人」という受け取りかたの両方に寄与する。

 結果、受け手の側で作品に向かうポジションがはっきり定められないでいるうちに、この小説は読まれていくことになる。
 これは明らかにそういう作戦であって、読者が勝手におぼえる座りの悪さを、小説は最大限に利用する。
 たとえばこんな部分がある。暴力団を扱った映画を撮ったために、生前の吾良がヤクザに襲われ大怪我を負った事件のことを古義人は思い出す。
《オカマ言葉で時評をやるのが売りの双子タレントの片割れが、あれはヤラセではないか、と疑っている談話記事を読んだ。念のために古義人は女性向けワイド番組に出るその男を見て、内面から滲み出ている荒涼かつ凄惨なものに圧倒された。こういう無残なツワモノと相接する世界で、吾良は仕事をしてきた、という痛ましい思いが、さきの言葉への怒りにとってかわった。》p96

 この記述は、「これはおすぎなのか? ピーコなのか?」という反射的な疑問と、「いや、おすぎだとしても、ここに書かれたおすぎは、書かれたことであのおすぎとは別物のフィクション的存在になっているはずだし、ピーコの場合もまた同じ」という反省を、同時に生む。落ち着かないこと極まりない。おすぎに不意打ちされる衝撃がある。
 このような混乱は、浅田彰らしき人物、武満徹らしき人物そのほか、もろもろの「○○らしき人物」が登場してくるたびに繰り返されて、いったいどう読めばいいのか、こちらの構えを不安定にする。

(1)
「これはまちがいなくあの人のことだな」と確信できる人物が、名前を伏せて、あるいは別名で、古義人の前に現れる。または、古義人の回想のなかに登場する。
(2)
それと並行して、「いや、これは創作だろう」という出来事も次々に起こる。または、古義人に回想される。

(2)のほうと同じように(1)のほうも、小説のなかに書かれた以上、創作になっており、両者のちがいは、その部分が小説の外、現実の世界に材料を持つか持たないかだけのはずである。ひとたび作中に書かれてしまえば、両者のちがいはなくなるはずである――
 そう考えて体勢を立て直そうとするのだが、しかし、どうもうまくいかない。たとえば「モデル小説」のようなわかりやすいひと言にまとめられることに、『取り替え子』は強く抵抗してくるのである。
 それは、ふつうなら極力排除されるだろう種類のズレが、この小説ではわざわざ強調されていることと関係がある。

「明らかな創作」を、「おそらく実際にあったこと」も含んでいる小説のなかに入れると、そこだけズレて見える。
(たとえば、ある怨恨のため数年おきに古義人のところにやってきて、毎回、古義人の左足の拇指に砲丸を落として去っていく襲撃者、というのは、すぐれて馬鹿な発想だと思う)
 逆に、「おそらく実際にあったこと」を、「明らかな創作」も含んでいる小説のなかに埋め込むと、やはりズレて見える。
(たとえば、吾良の自殺について北野武らしき人物が述べたものとして引用されるコメントのどぎつい生々しさ)

 両方のズレがあいまって、「フィクションだ、ぜんぶフィクションとして読むんだ」と思っていても、部分部分で現実の引力にひきつけられ、目の前がぐるんぐるんするような気分でページをめくることになる。これは酔う。
 どちらもフィクションなんだ、の一点張りで、これらのズレを「いや、ズレてない、どこもズレてないぞ」と自分に言い聞かせながら読むのはあまりに不自然だから、実感に正直であるためには、もうすこし考えないといけなくなる。

 小説のなかにはフィクションしかない。これはまちがいない。でもそれは、小説のなかが「ひとつのフィクション」という平坦な地面に均されているということではなくて、ひとつの小説のなかにも、レベルのちがうフィクションがいくつも並立しうるのだと思う。フィクションのレベルは複数あって、たがいに重なっていたり交錯していたりする。
 ひとつの小説に、ズレを感じるふたつの部分があったとしたら、それは片方が現実、他方がフィクションだからそうなるというのではない。ズレが生まれるのは、ふたつの部分がそれぞれフィクションのレベルを異にしているからである。
 レベルの差は、ズレとしてしか感知できないのだから、ズレを押しつぶしてはいけない。ズレには可能な限り反応する(=ズレるたびにつまずく)つもりで読むのが、この場合の「正しい」作法ではないか。
 落ち着いたポジションから読めないように書かれているのだから、落ち着いたポジションから読んではいけないのである。
 そうやって、参りました、煮るなり焼くなり好きにしてください、という姿勢で存分に翻弄されるているうちに、『取り替え子』の登場人物が立っている世界が徐々に浮かびあがってくるのを、私はたしかに感じた。
 それは、読んでいる私と地続きのようで切れているようでもある、切れているようで続いているようでもある、何か異様な場所である。そんな場所は、もちろん現実にはない。
 
 フィクションのレベル間の差を素材にして出来る、いわゆる狭義のメタフィクションは、もっと緻密に構成されてまとまった外観をしているんじゃないかと思う。『取り替え子』はそういうタイプの小説ではなかった。
 ここまでくどくど書いてきて、じつはこれがいちばん書いておきたいことなのだが、この小説でいちばん圧倒的なのは、これだけのややこしい小説世界を設定し、あちこちに露出させたたくさんのズレに読者をつまずかせ、その世界の成り立ちについて戸惑わせながら、自分では、そんなズレがあることをまったく気にしないかのようにストーリーを押し進めていくこの書き手の、なんというか、地力の強さだった。
(吾良の声が録音されたカセットテープ数十本を独りで聞きながら、古義人は彼と交感するシステムを確立していく。年来の友人だった彼が死を選んだ理由を求める古義人を追って、小説は書庫からドイツへ抜けだし、現代から過去の記憶へさかのぼって、真相のようなものを指し示そうとする。他人の絵本を噛み砕いて、そのなかにさえ入る。文章は、たぶんこれまでのどの大江作品よりも読みやすい)
 
 そして、いったい何がこの人をこのように変な構築の小説に向かわせる原動力なのか、というのは、続く『憂い顔の童子』を読んだときにいっそうはっきりしてくるように見えるのだった。

(続くかも)

取り替え子(チェンジリング) (講談社文庫)取り替え子(チェンジリング) (講談社文庫)
(2004/04)
大江 健三郎

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追記:
 現実(小説の外)、フィクション(小説のなか)、というような言葉遣いを繰り返してきたけれども、小説のなかで書かれていることはすべて小説のなかで現実だ、という立場を追加すると、上のほうで書いた文はこうなる。

「ひとつの小説のなかには、レベルのちがう現実がいくつも並立しうる。小説には現実のレベルが複数あって、たがいに重なっていたり交錯していたりする。」

 依って立つ地面が複数ある。この状況のぜんたいをひっくるめて小説内現実と呼ぶとすれば、それが外の現実とはぜんぜん別の成り立ちかたをしているのは言うまでもない。だから、小説が「現実的」であるかどうかの基準は、小説のなかにある。そこにしかない。
 以上は当たり前のことのはずなのに、文章にすると妙に仰々しくなってしまうのは、本当は私がこれを当たり前だと思っていないからかもしれない。
 小説なんて自分の好きなように読めばいいのだけど、どんな読みかたを自分が「好き」なのかは意外と忘れがちなので、この「現実的」のことは紙に書いて壁に貼っておきたい。
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