趣味は引用
大江健三郎『宙返り』(1999)
宙返り 上  講談社文庫 お 2-9 宙返り 下  講談社文庫 お 2-10
講談社文庫(2002)


 小説のはじまりは1990年代後半の日本。ただし作中の出来事は、少なくともその10年前に端を発している。
 ある宗教団体の一部が過激化し、無差別テロを計画した。それを知った教団の指導者である「救い主」は、先手を打ってマスコミを集め「教義はぜんぶ冗談だった」と公言、積み上げてきたすべてを台無しにすることで事態を収拾した。それでも信仰をたもとうとする少数の信者や、急進派の残党をよそに、「救い主」本人は隠遁、沈黙する。
 それから10年がすぎ、「救い主」から「師匠」に呼び名を変えてなぜか再び活動をはじめようとする指導者のまわりに、立場も思惑も信仰もさまざまな人びとがあらわれる。引き起こされる事件と奇跡。その他もろもろ。

 大江健三郎じしんが「最後の小説」にするつもりだったらしい連作長篇『燃えあがる緑の木』の3部作(1993-5)は、作中でそれまでの作品のほとんどに何かしら触れ、それによってぜんぶを取り込んだことにしようとしたのか、えらく強引なもので、全篇にむりやり感が漂うおかしな小説だった。集大成ってそういうものだろうかと思った。

 そして、小説やめるよ宣言を撤回して(小説やめるよ宣言をやめるよ宣言として)発表された『宙返り』も、やはりおかしな小説だった。
 いつも以上にゴツゴツした文章はまず相当に読みにくく、読んでいる最中は時おり苦行をしているような気分にさえとらわれたが、読み終えたあとから考えてみると、あながち辛かったばかりでもない、という気持になってくるから不思議である。
「せっかく読んだんだから、つまらなかったとは言いたくない」というのではないと思う。ではどんな気持かというと、それはやっぱり「変だ、これはぜったいに変な小説だ」ということになる。

『宙返り』の「変」にはいろいろある。
 それぞれの方向でそれぞれに息苦しく思い詰めた登場人物のせいで、また、てんこ盛りの様相を呈する陰惨な事件のせいで、さらには、場合によっては執拗すぎるくらい執拗な描写を一部分に塗り重ねるのに、ほかの一部分はまるごとスキップしたりしてこちらを混乱させてくる叙述のせいで、「とても一言ではまとめられない」という印象がじわじわと生まれてくる。
 いや、何よりも感想を書きにくくさせるのは、この小説のなかで宗教について、そして信仰について語られる、膨大な言葉である。私にはそれを咀嚼する歯が1本もない。乳歯さえまだ生えていなかったと思い知らされた。
 だからといって、教団の中心である「師匠」(パトロン:神のヴィジョンを見る人)と「案内人」(ガイド:「師匠」の見たビジョンを言葉で説明する人)の二人組が、あわせて「小説家」の役割を果たすことになる、みたいな読みかたも安易すぎる気がする。
 
 なので、いちばん「?」とおかしな気持になった箇所だけメモしておく。
 それは、「この人はどうして、女物の下着でブラじゃない方を“パンティー”と表記することに固執するのだろう」という問題ではなくて(これはまた別の長い物語である)、小説内でのフィクションと現実の重ねかただった。

 小説に書かれているものごとは、すべてフィクションである。そこは疑いようがない。いくら現実にある事物であっても、たとえば小説のなかに出てくる「東京」は、現実の「東京」とはちがう。ちがっていていい。その意味で、小説のなかにはフィクションしかない。
 ところが、現実に存在するもので、しかも場所としての「東京」のようには一般的・中立的ではない、特殊なもの(実在の人物など)が小説に登場してくると、そこだけ浮いて見えてしまう。まるでフィクションのなかに現実が混ざっているように感じられてしまうのだ(そんなはずはないのに!)。
 どうも、特殊なものであればあるほど、「これはたしかに現実の世界にあるものだけど、ここでは“フィクション化された現実の事物”であるから、つまりはフィクションであるよね」という判断が、うまく働かなくなるようなのである。

『宙返り』は、きっと、オウム真理教の事件に触発されて書かれたのだろう。ただし、現実のオウム真理教をモデルにした教団(フィクション)を中心にするようなやりかたはとっていない。
「師匠」の教団は架空のもの(フィクション)であり、いっぽうのオウム(現実)は、作中にもオウムとして登場するのである。で、この“作中のオウム真理教”を現実の側に置くのか、フィクションの側に置くのかが、読んでいる私にとって難しくなってくる。

「もちろんフィクションだ、だって小説なんだから」という判断が、まずある。これはまちがいない。でもそこに、「しかし現実だ」というゆるぎない実感が対立する。本来ありえないはずの混乱が、どうしても生まれてしまう。するとどうなるか。
 宗教活動を再開する旨の記者会見をおこなった「師匠」に、ある新聞記者が「どうしてオウム以後に?」と疑問をぶつけるところがある。
[…] 気になることはあるんですよ。この国の社会には最近も、ハルマゲドンを戦い抜くと主張した宗教団体があるからです。のみならずかれらは、サリンガスによる無差別テロを市民に向けてやった。あれをもう忘れたという人間は、この国の社会にいないでしょう。
 ところがそのオウム真理教も、教祖がインドで修行をして、最終解脱者となったと宣言した時点で、信者は三十五人だった。それが翌年には千五百人になった。のちに幾つもの犯罪に実行犯として加わった幹部たちも入信しています。さらに次の年、富士山総本部が完成する年には、信徒は三千五百人を突破して、宗教法人にもなりました。[…]
 三十五人で出発して、十年たらずのうちにそれだけのものになりました。連中の主張するハルマゲドン戦争が実現していたとしたら、地下鉄でのサリン散布の死傷者四千人どころじゃすまなかった。》上巻pp338-9

 わざわざ細かい数字を出して念が押されている。これはたしかに「現実」にあったことの引き写しだ。それが小説(フィクション)のなかに書いてある。
 このことのどこが変なのかといえば、作中の出来事を時間順で並べると、

「師匠」の宗教団体によるテロ計画(失敗)
  ↓
 オウムの事件
  ↓
「師匠」の教団の再結成

 と、こうなるはずで、じゃあ『宙返り』のなかのオウム(現実?フィクション?)は、この教団(フィクション)がやろうとして、しかし不発に終わったテロ計画を参考にしなかったのだろうか、という疑問が生まれてくるのである。だって、参考にしないはずがないじゃないか。
 そして、参考にしたのであれば、作中のオウム(フィクションのはず…)の活動は、現実とちがった進みゆきを見せなくてはおかしい。
 なのに、そうなっていない。作中のオウムは、「師匠」の教団が存在しない現実世界のオウムの盛衰を、さっきの引用部分に見られるように忠実になぞるだけだ。

 やはり、参考にしなかったのか。でもでも、それはあまりに不自然である。それでは、参考にしたけど結果は同じだったというのか。そこらへんはいったいどうなっているのか。
 まさかこの作品においてオウムは取るに足らないものだったのか? イヤそんなことはありえないし…… そもそも、この疑問は疑問として成り立っているのだろうか…… と混乱が深まっていく。
 読者をこんなふうに悩ませるこのような小説の書かれかたは「変」で、「おかしい」。

 念のために書いておくが、「変」で「おかしい」という私の感想は、「まちがっている」「こんな書きかたは誤りだ」という意味ではない。
 この「変」で「おかしい」書きかたによって奇妙な混乱が生まれ、こっちまで「変」で「おかしい」かもしれない疑問に包まれて、いったい自分はどうしてこんなことを考えているのか途方に暮れた、ということである。
 こちらを途方に暮れさせる部分、それが小説でいちばん面白いところだと思う。

 過去作から続いて登場する架空の登場人物や架空の地所といった点で、ほかの作品と地続きになっている部分もあるいっぽう、『宙返り』の少なくとも一部では、フィクションのなかに現実の事物を持ち込むやりかたが、ある意味で乱暴なのだった。
「ある意味で」と書いたのは、そこのきしみから生まれる上述したようなおかしな効果が作品の全体に寄与しているのか、それともその場限りのものにすぎないのか、いまひとつ見定めがたいためである。

 現実にあるものを小説に持ち込み、そこに生まれる異和を足場にして、現実の世界ではもちろんない、かといって完全にフィクションの世界でもない、第三の世界が立ちあがる――うまくすればそういうことが起きるかもしれない。
 これは私の気のせいでしょうか、と思っていたのだが、ほんとうにそんなことを起こしてしまうのが、次作『取り替え子』にはじまる3部作なのだった。

続き
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック