2008/04/17

経過報告

 ジーン・ウルフ「新しい太陽の書」を読んでいる。
 まだ、第1巻『拷問者の影』を読み終えて、第2巻『調停者の鉤爪』の真ん中を越えたあたり。なにしろウルフであるから、「いま面白く読んでいる部分も、ほかの部分と照らし合わて考えれば、裏の意味とかたくさん見えてくるのかもしれない」という思いがつきまとう。かえすがえすも、この「かもしれない」がキモだと思う。だいたい、
《[…]真相は、わたしがいわゆる完全想起力という呪われた能力の持ち主の一人だということである。われわれがあらゆることを覚えているという、愚かな申し立てを時々耳にするが、必ずしもそうではない。たとえば、わたしはウルタン師の図書館の棚の配列を思い出すことはできない。しかし、多くの人が信じてくれる以上に、思い出すことはできるのだ。幼年時代にたまたま通り過ぎたテーブルの上の品物の位置とか、ある場面を以前に心に思い浮かべたことがあるとか、そして、その思い出した事柄が、それについての現在の評価とどのように異なっているか、というようなことさえも。》『調停者の鉤爪』p98

 語り手がこんなことを口走る小説を、すらすら読んでしまっていいはずがない。じじつ「!?」となる箇所もポロポロ出てくるし、「おまえ、そのうえ夢まで見るなよ」と言いたくなる。しかし、なにしろ初めて読むのであるし、今回は「それでも、立ち止まらない」ことにした(読み直しは「新装版」でやればいいや、と思っている)。そうすると、いまはただ押し寄せてくる流麗なストーリーを、「ああ、おれはまさにいま、現在進行形でいろいろ見逃しているのだろうな」と感じながらどんどんうしろにながしていく、という格好になってきて、これはこれで贅沢なのにはちがいなく、ゾクゾク震えてページをめくるのだった。
 たぶんねじれているだろう小説を読む側の私が、はっきりねじられてしまっている。不健全である。それにしてもセヴェリアンって誰なんだ。
 
 で、それよりも前、3月後半から4月あたまは、なぜか大江健三郎ブームになっていた。『燃えあがる緑の木』(1993-5)よりあとの小説はぜんぜん読まないまま、いつか読む気になるときを待っていたのだが、われながらとつぜん『宙返り』(1999)の上下巻に手を伸ばし、それから“古義人3部作”と呼ばれる『取り替え子』(2000) → 『憂い顔の童子』(2002) → 『さようなら、私の本よ!』(2005)まで、まとめて読んだ。
 夜中に思い立って部屋の大掃除をするような取り組み方で、それまでの読まない期間はなんだったのかと思えるほど何気なく読んでしまったのだけれども、4作続けて読み終えてみれば、あと残るのは去年刊行の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』であって、なんだろう、高校から読みはじめた大江のペースに「とうとう追いついた」感が、すごく意外である。この気持、わかってもらえるだろうか。そうか本当に現代の作家なんだな、と初めて実感されたというか。『臈たし~』を読んでないんだからまだ追いついていないんだが(あと、『二百年の子供』[2003]というのもあった)。

 で、その大江健三郎は、やはりどうかしている小説家だった。私の考える大江の長篇不動の第1位は『洪水はわが魂に及び』(1973)なのだが、いまも生きて書いている人に「不動の第1位」とか言っててはいけないんじゃないか、という気にさえなった。「新しい太陽の書」読書の合間を見つつ、ちょっとメモしておきたい。たぶんする。

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