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大江+高橋:対談「現代文学への通路」(1990)

 こないだ感想を書いた『治療塔』のあと、続く『治療塔惑星』に取りかかる前に、大江健三郎は「現代文学への通路」という題で対談をしている。相手は高橋源一郎。「新潮」の1990年9月号に掲載(125~145ページ)。

 これに限らず、文芸誌に載る対談のたいていは、いちど載ったら載ったきりで、そのまま消えていく。海外文学についての対談なんかは特にそうだ。ものによっては、すごくもったいないと思う。
 この大江+高橋対談は、そのもったいない方だと思うので、以前図書館でコピーしてきたものから、なるべくたくさん書き写してみたい。

 そんな動機だから、以下、かなり長いです。話題としては、「読みの二重性」、「辻褄合わせ vs 裂け目」といった問題をめぐるものになっていく。いちばん多く出てくる固有名詞は「レム」じゃないかと思われる。
 冒頭、高橋源一郎は、SF批評家(森下一仁)が『治療塔』の書評で「戸惑っている」様子を紹介するところから話を始める。科学的な整合性から言えば、『治療塔』は筋が通っていない。でも、それと作品の価値は切り離すべきかもしれない。「どうしても読み方が二重になってしまう」。
高橋 […]サミュエル・ディレーニィというSF作家がいます。大学でSFを教えたりもしているんですが、彼はいつも、いわゆる純文学プロパー、純文学ばかりを読み純文学を文学最高のものと信じる人たちがSFを読む場合にSFの読み方を知らずに読み、見当違いの批判をする、と文句を言っています。つまり、SFにはSF固有の読み方があり、文学作品としての善し悪しを判断する基準とは別の基準がまた存在するわけです。ですから、ジャンルの特性上、いい作品は必ずダブル・リーディングになってしまうんですよ。[…]

大江 「近未来SF」という広告は、優秀な編集者が考えてくれたんですけど、僕は「ジャンルSF」とは考えないで書いていました。確かに、僕がSF読者として読むとして『治療塔』を読むと、もっと真面目にやってもらいたいと言ったと思うんですね(笑)。夜遅く原語や翻訳やらでSFを読んでいる時、しばしば真面目にやってくれと言いたくなるから。科学的に基本的な筋は通してもらいたい。[…]ところが、自分で『治療塔』を書く時、科学的には一応正しいという前提、それもじつは仮の前提ですけれども、それに拠ることは考えないで書いたわけです。[…]》pp126-7

大江 遠い惑星に辿り着くという設定で書かれたSFを読んでいて、いつも行ったら帰れないだろうと思います。[…]僕は太陽系の外の惑星に行くとすれば、帰ってくる座標系はない、と未来を理解しています。ところが僕の小説の場合、帰ってこないと始まらない。帰って来るという設定はSFとして成立しないだろうと思いながら書いたわけです。ところがそうした批評に接しますとね、SF作家は真面目に、科学の原則に従ってやれと読者としては怒りながら、作者としては曖昧なことを書いていると反省するんです。[…]》pp127-8

高橋 […]僕がいま一番説得力があると思うのはパトリック・パリンダーというイギリスの批評家が紹介している考え方です。彼はそのSF評論の中でカウンターでもサブでもなくてパラ、つまり文学という捉え方をしています。文学あるいは「主流派文学」という閉域の周縁にあるジャンル、あるいは文学に対する弁証法的な他者という見方ですね。つまり中心に位置することになってしまった文学は絶えず自分を純化する必要があり、余分なものを外に吐き出してしまう。それがSFやミステリー、普通パラ・ジャンルと呼ばれているものでしょう。これは周縁と中心の関係になるわけですが、文学史を遡ってみれば少し前まで小説というジャンルそのものが文学の周縁にあった。アリストテレス以来の分類には入っていない、周縁に発生したパラ文学だった小説がいつの間にかパラが取れて中心となり、旧来の中心だった叙情詩、叙事詩をも組み込んで自己純化してゆく。その運動の過程で、周縁にSFが生み出されるという構造になっています。ただ、ここで問題なのは、排除された他者もまた、中心の文学が自らを純化するのと同じように、自己純化に向かうベクトルを持っているということでしょう。すると、そこに意味のない対抗関係ができてしまうんです。これがSFというジャンルの難しいところです。ですから、少数の優れた作家は周縁と中心の間を移動します。ピンチョンなどはその典型だと思いますし、レムや筒井さんもそうだと思います。
 パラ・ジャンルの外側には外部の現実が広がり、そこに交通が生まれます。パラ・ジャンルは交通している、もしくは交通すべき文学領域なんです。かつてパラ文学だった時、小説も外部の現実と交通することは自然なことだった。自分自身が中心になった途端に外部を見失ってしまったのではないでしょうか。自らにとって危険な外部は、直接的に外部の問題としてではなく、いつもパラ・ジャンルの問題としか見えないわけで、主流派文学がパラ文学に対し様々な反発を感じるのも当然でしょう。僕にとって興味があるのは、ジャンルの境界を移動する境界侵犯作家です。[…]ところで、僕は、一人のファンとしてはいわゆるゲットーSFの愛好者です。大江さんは海野十三とかジャック・ウィリアムソンというあたりから読み始められたという話を聞いたことがあるんですが、僕は一九五〇年代のハインラインとかアシモフ、ブラッドベリやブラウンから読み始めたSFファンですから、どこかで違いがあると思います。ゲットーSF的な観点でレムやストルガツキー兄弟を読むと、どうしても二重の読み方になってしまうんです。彼らはやはり、ジャンルに内在する可能性と必然性に従って、どこかで文学の中心と触れざるを得ないところまで追い詰められた作家たちなんですね。》pp128-9

大江 […]いまの話で僕に面白いのは、まず、一般にSFは、本当はこんなことはないんだけれども、一応こういう話を作ってみようというところから出発して、その代わり科学的に考えられることは全部誠実にやってみようする。最初に事実生の否定ということがあって、これはつくりものにすぎなということがあって、その上で小説作りに熱中していくわけですね。ところが、純文学の書き手たちは、小説を書くこと自体が、これはすでに真実の再現ではない、ということを忘れている。いつの間にか、小説は本当に真実を反映したり、現実とつながっていたりはしないということを忘れている。それと同時に小説が文学の中心の位置に進んだとも思うのです。しかし最初に小説を書いた人たちは、ああ、小説は贋物だ、これはつくりものにすぎないという認識を一挙になしとげていた。たとえば『ドン・キホーテ』。騎士小説は真実じゃないのに、それを読み耽っているうちに現実と小説が入れ違ってしまった読書好きの田紳を書いている。スターンの『トリストラム・シャンディ』も現実の再現など思ってはいない。小説が始まった十六世紀、十七世紀に、すでに小説は現実とは無関係なつくりものだという認識があった。その上で、しかし小説で語られる世界を一応信じてみようじゃないか、ということだった。二重性の問題は、一般の小説にずっと前からあったものです。それをとくにリアリズムの段階で忘れてしまった。それに対して、SFの人たちは、小説はつくりものだ、つくりものだけれども頑張ろうじゃないかという点で、いつも反省しながら新しいジャンルをつくりだし続けている。いわゆる純文学の作家とちがうSF作家の真面目さはあきらかなんです。》pp130-1

大江 レムとストルガツキー兄弟が僕の読んでいるSFで、高橋さんと重なる部分じゃないかと思います。それから後は僕はよく知らない。それ以前のことには高橋さんの方で関心がないんじゃないかと思うんですけど。レムもストルガツキー兄弟も、両方ともSFは現実とのつながりをまず切ったものだ、メタ・フィクションだということをよく知っている人ですね。レムはじつに奇怪な空想を考えて、それだけの奇怪な空想を提示すれば、SF小説の目的は終わったとしてもいいほどだと思いますけど、レムはそう考えない。奇想の全部を、フットボールの試合の攻め方のモデルづくりのように、ちゃんと布陣しましてね、わあっーと攻めていくわけですね。小説のちょうど半分あたりで奇想が設定されて、それで終わるかと思うと、そこから押し出していく。常識的なしめくくりは不可能に決まっている。[…]》p131

 高橋源一郎はこれを受け、「SFと現代文学」というテーマを仮定したときに思い浮かぶ作品として、(SFのなかでは周縁にあると念を押してから)次の四つを挙げている。

 ストルガツキー兄弟『宇宙終末十億年前』
 レム『天の声』
 ディック『ヴァリス』
 ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

高橋 […]ではこの四つの作品に共通しているところがあるのだろうか。どれも失敗作と言うのが酷としても、少くともその作家の代表作とは呼べないものです。というのは、普通の意味でのフィクション言語のつながりが途切れてしまっている。読んでいて、バランスが悪い。落ちつかない。その代わり、大江さんがお使いになる言葉を用いるなら、強靱な「構想力」のある作品だと思うんです。いわゆる「いい」文学作品は、まずある疑問なり問題を提出し、それが半分解決され、また未知の疑問が提出され、またそれが解決され、という具合に読者が扉を一つ一つ開けて進んでゆくのが普通ですが、そういう点では全く不親切な作品ばかりなんです。作品の中にたくさん謎が出てくる。それを解決する答えは最後の辺りに出てくるんですが、これが果たして説得力があるのかないのかよくわからない。あまりに巨大な謎に対する奇想天外な答えだからです。通常、我々は文学の善し悪しを判断する際に説得力という言葉を使いますね。文体の善し悪しという規準と並んで、論理的に破綻しているとか説得力がないという言い方をしますがそういう意味での説得力はいまあげた作品には乏しい気がします。つまり、あまりに裂け目が大きすぎて、何をもってしても埋め難くなってしまうわけです。[…]最後に一つ答えが提出されるんですが、これが全く見当もつかないような答えなんですね。だからSFとして説得されたのかどうかこちらには判らない。だが、感動のようなもの、ある大きいものを読んだ、というか大きすぎるものは読めないのだという確信はわきあがってくる。ではこれはSFではなく文学を読んだということなのか。それとも、SFでも文学でもなく読むということが非常に奇妙な経験ではないのか。そんな巨大な裂け目の存在を考えさせてくれる。[…]SFは、奇想が根本になければならないにもかかわらず、同時に認識可能でなければならないという矛盾を含んでいます。さっき言った通り、とんでもないアイディアを妙に理詰めに説得しなければならないのはSFの運命ですが、その矛盾はフィクション言語がとりあえず共有しているルールの曖昧さを壊し、認識そのものを問うというところまで行き着いてしまうこともあるんですね。

大江 小説にしても詩にしても、裂け目が大きく開いたままで終わるというか、テキストは裂け目を開いたまま終わって、そこから読み手のイマジネーションがはっきり開かれるというのがいいかたちだと僕は考えています。ところがとくに小説を書くということには、はじめ裂け目を開くことはできるんだけれども、その開いた裂け目をなんとかつくろって大団円をもたらしたいという本能みたいなものが働くんじゃありませんか? もしかしたら人間の認識の形そのものがそうなのかもしれないとも思うんです。現実の上で収まりのつかないような裂け目を開くんじゃなくて、一応裂け目を開いて見せるんだけれども、それがやがては完結して、裂け目が閉じて筋道が通うという事態をつくるのがどうもフィクションではないか? つまり現実というものは筋道の通ったものであるという幻想を示すのがフィクションです。一方、科学とは何かというと、いまおっしゃった、いろんな認識論の違いが生じてくるように、現実というものは筋道の通らないわけのわからないものだということを発見してきたのが現代の科学であると僕は考えています。[…]SFが真面目なのは、現代科学ともども予定調和信仰を超えたものを発見してしまう、裂け目を発見してしまう態度が作者にも読者にもあるからです。純文学のフィクションのほうは、世界というものはまとまりのあるものですとなおいいつづけている。ところが、そうしたフィクションのなかに現実そのもののような大きい裂け目を発見してしまう天才が時どきあらわれるわけです。裂け目を発見したまま、その超え方は示さずに終わるんだけれども、その小説は決して失敗していなくて、僕たちに新しい認識を教える小説としてあるわけですね。[…]》pp133-4

大江 SFを読んでいて、きまって面白いと思うのは、奇怪な発想がいつもしっかり説明してある、そういう細部ですね。圧倒的に強い宇宙船がやってくるとすると、それがどういう合金でつくられているかということが書いてある。それに乗っている人間も、なぜこういうものに乗って金星に来たかがちゃんと書いてある。ところが、いわゆる純文学は、僕など典型だけれど、説明しない。夫婦なんていうものがなぜ存在して、茶の間でめし食っているのか。奥さんは苦しく嫉妬したりしている。嫉妬とはいかなる人間の感情であるか、ということを説明しない(笑)。純文学が説明しないのは自分と違った人に読んでもらおうという気がないからか。自分と同類が読むだけということで、二重、三重の防壁で守られて書いている。SFの作家の天才的な人びとは、自分が書いたり考えたりすることが一般人に受け入れられると思ってはいないんじゃないかな。なんとか受け入れてもらおうと説明したりしているんだろうと思うんです。》pp135-6

大江 […]いろんな新しいものがつくり出されるのもゲットーだし、非常に古いものがどんどん、どんどん古びて洗練をきわめ、そして腐敗しはじめるのもゲットーでしょう。それから、そのなかでは社会関係も非常にはっきりしているわけですね。[…]だから、どうも人間の社会とか人間の運命とかということについてよく考えることができる。だから、ゲットー的なもののなかで検討することは非常に重要だと思っているんです。
 ところが純文学なんかは、いわゆる文学というものは、ゲットーなんだけれども、ゲットー性を失っているわけです。非常に抽象化されているんです。僕らに対する批評なんかそれが現にあるんですけどね。だから、純文学における市民小説なんていっても、私小説と五十歩百歩なんですよ。それは、どうも徹底してジャンルを破壊してしまうとか、裂け目を発見してしまうということはないな。ところが、実際の市民生活なんていうのは裂け目だらけなんじゃないですか。裂け目だらけということを表現するにはとても大きい天才が必要です。[…]》pp136-7

高橋 […]奇想とか裂け目は、作家には多分最初の段階で一挙にやって来ると思います。しかし、読者にとっては奇想に辿りつくまでものすごく長い道があるわけで、レムやストルガツキー兄弟はそこへもってゆくための道のりを考え抜くんですね。特に、ストルガツキー兄弟を読んでいるとカフカと似ているなあと思うことがありますね。ストルガツキー兄弟の場合、ソ連の社会体制とアナロジカルな背景が出てくるので逆に誤解されてしまう危険もあるんですけれども、奇想を提出する状態に辿りつくまで長い平坦な道が耐え難いくらい続くんです。さっきも言いましたが、『ソラリス』は本当に完璧な作品なんですが、完璧ゆえに裂け目がもはや見つからないわけです。ところがカフカの作品は、そういう意味では完璧ではないんですね。確かに『審判』や『城』は完璧と言ってみたくはなりますが、何か終わっていないような気がするんですね。終わっていないということは、読者を小説的状況のなかに置き去りにしたまま中断するということなんです。

大江 そう、そう。重要なことだと思いますね、終わっていない小説を書く才能は。それは天才の発明で、しかも同一の発明を繰り返すことは出来ない。宇宙から隕石が落ちてきて作家を直撃するような感じで着想される。終わってないんだけど、そのこと自体が本当に僕たちのイマジネーションを開き、かつ全面的に説得するという小説があるんですね。たとえばカフカで言えば『審判』の最後なんかも。サルトルは、イマジネーションは小説を読んでいる間働くもので、閉じてしまうと終わると言っていた。どうもそれはサルトル自身の小説の欠点ですね。本を閉じてしまっても終わらない小説があって、僕らの心に傷のように残っている。カフカにしても、フォークナーにしても。それが現代の小説の理想だと僕は思うんです。僕たちはなんらかの根拠のない妄想によって、現実生活もフィクションも完結すると信じている。それを揺さぶらなきゃいけない。ところがとくに純文学では、大きい裂け目を開いて小説の生成そのものについて反省させる力が衰弱してきている。ところがSFのなかにはしばしばそれがあるということです。
 さて、高橋さんは『ソラリス』を完璧だといわれたけれど、そうでしょうか? レムは原形質というものを考えて、それは初期の小説にも原形質の小川みたいなものとして出て来ました。『ソラリス』には原形質の海があって、それはこの惑星に行った人間の意識にのみあるものを、向こう側の好意で再生してくれる。たとえば障害を持った子どもと同じようで、しかし完全に健全な子どもを僕に与えてくれるような、そういう出すぎたことをする原形質のもとじめがいるわけですね。失礼だと僕は思いますけど。そこで、何度も何度も、自分の殺した奥さんが具体化して出て来る。それを殺したりなんかもしたあげく、宇宙飛行士はどういうわけかもうあらわれなくなったその女性について思いつつ、地球に帰っていく。心のなかで、あの女性について、自分は希望を持ってはいないけれど、期待は感じているといって終わっている。そういう奇怪な発想と、その徹底から進んで行って、最後にお説教するという点で、レムの定型を踏んでいると思います。[…]
 
高橋 […]僕が『ソラリス』が完璧だと言ったのは、よく出来ているという意味ではなく、ある地点でまとまってしまったという意味を含めて、消極的な評価なんですね。「原形質の海」を含めて、レムの作品を説明することはそんなに難しくありません。別の知性体から発信される謎の暗号を解釈することの不可能性というテーマが一貫して流れていて、それは最終的には人間は他者というものを理解することはできないのだというところにつながっていくわけです。もう少し違った言い方をすれば、向こう側に不可能のものを見るということだと思うんです。普通、書けないことは書けないわけで、書けないと表現するしかないわけです。しかし、その不可能性をなんとかして表現しようとするのがレムなんです。ですから、僕はレムは一貫してメタ・フィクションを書いてきたと思っています。もう少し付け加えて言えば、欲望や記憶、願望などありとあらゆる人間的事象は、記述はもちろん可能ですけれども、部分的たらざるをえません。書くことの属性の中では絶えず脱落してゆくものが出てくるからです。完璧に書き尽くすことは不可能ですからね。しかし、完璧でなければ無意味ではないかという問いも書き手のなかには絶えず存在するわけで、その欲望が満たされることはありませんが、その満たされない欲望を書くことで、逆に書きえないものを照らし出すこと。それがたぶんレムの願望だと思います。『ソラリス』ではとりあえず、それを知性ある有機体の海という形で表現したわけですね。[…]》p138-40

 このあとしばらく、話題はレムとタルコフスキーのちがいになる。
 単純にいえば、小説と映画はぜんぜんちがうという話。
大江 […]僕は映画の側じゃなく、小説の側でずっとやってきたわけです。その場合に必要なことというと、小説をどのように物語るかということに尽きます。つまりナラティフの問題として僕は考えているわけです。小説において――簡単に言えば物語ることが出来ないものをいかに物語るかということに力を注いでいるわけですね。それもナラティフでこまごました細工をして、物語り得ないものが物語られているという幻想を与えるというのではなくて、ナラティフで、語り方で根本的な工夫をして、どうしてもいままで物語られ得なかったもの、語ることが不可能だったものを語りたいと考えている。レムもそれを考えているはずです。かれの場合で言えば、原形質という着想。それが人間の心理を読みとって、人間まで複製したりする。これは時間の要素をなくして、一瞬としてとらえると、イメージとしては明瞭に提示出来ます。海がある。そこから複製された人間が出てくる。ところが、どのように工夫しても、ナラティフというものにはどうしても時間の要素が入って来ます。女性が復元される以前も必要だし、復元された後どうなるか。その翌日復元された人間とこちら側との関係はどうなっていくかということで、時間がどうしても入ってしまう。時間よ、止まれと言いたいところだけど、ナラティフを続ければ時間は止まらなで進行する。そこで問題が生じる。時間の要素をいれて物語っていくと、どうしても辻褄が合うようにしてしまう。それが言語というものなんですね。絶対に辻褄が合わないような話は、天才でもなかなか出来ない。それで苦心しているわけです。
 ところが映画の場合は、一瞬の映像というものを示して、ソラリスの海で、ブツブツ、ブツブツ泡立ったりなんかしている、どうも何か起こりそうだというシーンだけで説得力があるんです。それは時間にそって物語っているわけじゃない。絵を見せているわけですね。[…]》p141

高橋 辻褄を合わせるという問題についてなんですが。かりに僕が『治療塔』を書いたとして、十年間で往復できる恒星系などないという問題は幾つかの便宜的な説明を挟むことによって解決することも可能でしょう。しかし、そういう説明にどんな意味があるのかとも思えるのです。もともとフィクションなのですから、辻褄が合わなくたってかまわないはずです。それをどうしても辻褄を合わせようとするプレッシャーが僕自身のなかにもあるんですね。書き手としても、辻褄が合っていないと気持悪いと感じますから。もちろん辻褄が合わなくてもいいシーンなどいくらでもあります。たとえば、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』でも何でもいいですけど、ちょっと待ってと言いたくなるところがたくさんある。『百年の孤独』のなかにも、いきなりUFOが出てきてこれは何だと思うけれども、結局全体のストーリーには関係がないのでそのまま通り過ぎてしまう。みんな、因果関係ではなく文体によって処理しているわけですね。しかし、もっと別の処理の仕方がないだろうか。さっき挙げた四つの作品のように、辻褄など合わなくとも、作品が途切れてしまうくらい大きな裂け目が出来ていても、なおかつその裂け目を飛び越えるように、あるいは立ち止まるようにして書かれた作品もある。それは、SFと読んでいる時によくぶつかる経験ですが、純文学の場合は自動的に辻褄が合ってしまうんですね。》p142

大江 […]人間がしゃべるということ自体どうも辻褄合わせることになるな、と思う。少し前に歴史を物語る言葉は支配体制のイデオロギーの産物であって、ニュートラルな歴史の記述はないということが言われましたね。もっと根源的に、支配体制も何も越えたところで言葉が意味のあるものとしてつくられている。現実世界とは別の、意味の体系としてある。現実世界はわけのわからぬものとしてその向こう側にあるんだということを思うわけです。僕たちが自分のなかにある意味の体系をぶっ壊して、割れ目をつくろうとするのは、そういうことで現実と近づきたかったのだと思う。「異化」もふくめ、そのために小説のいろんな発明が行われてきた。僕らもそれをやっているのだと思う。[…]
 もっとも現在の小説、いわゆる普通の小説一般について、もうわかった、小説に出てくる人間は木偶の坊で、大同小異だというあきらめがあるのかもしれない。問題は、偉い人物、奇怪な人物が出てきたりすることじゃなくて、それこそ言葉の戯れというか、言語的なゲームが小説の本質らしいというふうなことを考えて、文学のなかの人間像の特異性については、気にしなくなっている。それでSFに木偶の坊が出て来ても、あまり抵抗を感じないで読むということがあるのかもしれませんね。なら僕らが批判されているわけで、その点でも、SFはメタ・フィクション。だいたい小説を読むことの根底にまず遊戯性を置くということはかなり高級なことですものね。小説の発生以来、本当はそうだったんじゃないか。『トリストラム・シャンディ』にしても『ドン・キホーテ』にしても、同時代に読む人はあまり真面目に読んでいなかったろうと思うんです。ゆったりと余裕をもって、一つ楽しんでやろうと思っている、そういうものとして小説がある。書くほうもそれを考えて、ソフィスティケーテッドな小説を書いている。ところがトルストイやドストエフスキーの大文学で小説が人生の教典のようなことになってしまった。それへの反省は行われたけれども、残っているところがありますからね、いわゆる中心の文学には。
 
高橋 大江さんのおっしゃるように、言葉は現実とは異なった一つの意味の体系として存在している。それは、小説は一つの意味の体系として存在している、SFは一つの意味の体系として存在していると言い換えても同じですね。僕たちは現実に肉薄しようとして言葉を使うわけですけれど、たいていの場合そうではない別の体系にひっかかってしまう。社会学的観点から文芸誌を読んだ学者の評論を読んだことがあります。ここで行われていることは真実の生産ではない、ある同一性の再確認が行われているだけだとその学者は結論づけているのですが、それは純文学に限らずあらゆるジャンルについても言えることでしょう。その同一性を確認する手段が必要になります。それが、批評です。もちろんそれは、真の意味での批評と区別するために「文壇批評」とでも呼ばなくてはなりませんが。そこでの批評の機能は、閉域のなかで形成されたある一定の水準の「真実」からの偏差の測定だけです。これは未熟であるとか、これは失敗作であるとか、裁断する基準がどこかにあるわけで、その基準自体については決して手を触れられることのないシステムだ、と社会学的に言えばそうなるのかもしれません。僕は社会学的な「真実」のために小説を書いているのではないと信じているのですが。

大江 それはそうです。批評はだいたいそうで、いちいちの小説の作品を批評する基準はないですよ。ところが、みんなそれがあるかのごとく振る舞っているわけですね。それを制度化するというか、大きいシステムにしたのは社会主義リアリズムの批評で、それは現に生き残っていますよ。僕は、ああいうものへのそれこそペレストロイカが必要だと思います。東欧における社会主義の行き詰まりということを見るなら、社会主義リアリズムの批評の行き詰まりも認識しなきゃいけないと思っています、日本のこととして。
 僕たちが――どんな文学でもいいですが――文学を生き返らせるためには、根拠のない尺度というものを撤廃していかなければと思うんですね。その一つとして、いまおっしゃったけれども、SFならSFが先刻打ち壊している尺度というふうなことは、作家一般の教育として受け止めなければいけないと思います。》p143

 このあと高橋源一郎が、ディックの小説からお土産のようなエピソードをふたつ披露して対談は終わっている。
「いっそ全文書き写してしまおうか」くらいの勢いで始めたものの、ひとの喋り言葉をこれくらい引用していると、自分で自分が気持悪くなってくる。それを越えて思うのは「大江すげえ」ということだが、いかがだろう。
 もういちど書いとく。この対談は「新潮」の1990年9月号に載っている。
(辻褄の合わない文章を書くのがいかに大変かという話を、保坂和志も、去年の公開対談で力説していたのを思い出した、)

 対談のあとに書かれた『治療塔惑星』を高橋源一郎がどう読んだかは、時評のかたちで『文学じゃないかもしれない症候群』に書いてある(「起源のSFとSFの起源」)。そういえば穂村弘を知ったのもこの本だった。つくづく、ありがたい本だ。

 ついでにレム。国書刊行会から出た新訳『ソラリス』について、訳者の沼野充義と大江健三郎が対談をしていたはず。ググってみると、たぶんこの「すばる」2007年4月号だが、読んでないのでよくわからない。レムは話題のひとつ、くらいだろうか。

 講談社文庫版『治療塔』には、この対談を発展継承させた立派な「解説」がついているんじゃないかといま思いついたんだんだけど、こわいので確認しない。
 あと、これより前に高橋源一郎には、SFセミナーでの講演(というか、大森望との対談)もあった。そちらは「SFマガジン」1989年10月号に掲載。
 面白いことに、大江健三郎とはレムの話をし、大森望とはおもにラテンアメリカ文学の話をしている。どちらもすごい自然なのである。
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