2008/03/13

大江健三郎『治療塔』(1990)、『治療塔惑星』(1991)

岩波書店


 近未来。「世界が取りかえしのつかぬ破壊と汚染の泥沼に落ち込んでしまった」ために、人類は「スターシップ公社」を設立、少数のエリートである「選ばれた者」たちを乗せた宇宙船団が組織されて、地球を去った。どこか別の居住可能な星を「新しい地球」とし、人類を存続させるためである。この「大出発」のあと、地球の「残留者」たちは「再建運動」として生産のシステムを根本から組み換え、あらゆる産業を分割・単純化した(大量生産から「器用仕事[プリコラージュ]」へ)。古い地球が生活レベルを計画的に「退行」させることで持ちこたえているそんなところに、「大出発」から10年を経て、なぜか「選ばれた者」たちの大船団が帰還する――

 大江健三郎が18年前に出した「近未来SF」の2部作。私はずいぶん前に古本で買って読んだんだけど(2冊セットで700円とか)、岩波の同時代ライブラリーにも現代文庫にも入る気配がないと思っていたら、こないだ本屋で『治療塔』が講談社文庫に入っているのを見かけた。いずれ『治療塔惑星』の方も入るんだろう。それで私の思いが誰かに通じる可能性も開かれた気がするので、ここで言っておきたいことがある。

 これって『風の谷のナウシカ』(原作漫画版)じゃなかろうか。

 以上。あとはいわゆるネタバレなので、一応ご注意。

 小説は「残留者」のひとりである、「私」こと“リッチャン”という女性の一人称で進む。「大出発」のあと、「残留者」のあいだに根強く残る疑いとして、こんな意見をリッチャンは聞かされる。

《[…]宇宙船団を実現させた者らならば、次のような構想もまたいだきえたのじゃないか? それは「新しい地球」をもとめて旅立つより、あきらかに地に足がついた、文字通り地球の表面に足がついた考えだよ。
 宇宙船団で「選ばれた者」らが地球を離れる。その際かれらにある方法で改造をしかけてさ、改造人間としてしまう。どのように改造するかといえば、現在のレヴェルまで汚染されている地球でも健康な生涯が立派に送れる方向にさ。》p83

 そして実際、帰還した「選ばれた者」たちは、はじめ隠しているものの、身体に何かしら「改造」が施されていることが徐々にわかってくる(具体的には、「残留者」に較べて、彼らは若返っているようなのである)。ただしそれは彼ら自身による改造ではなかった。
 
 思い切り端折って書く。 
「選ばれた者」たちは「新しい地球」に到着できたのだが、生きていくうえで、そこの環境は古い地球よりも過酷なものだった。ところがあるとき、謎の建造物が発見された。タイトルになっている「治療塔」である。
 どうして「治療塔」なのか? その内部に入ってみると、体が光り出し、病気・怪我が治癒するのである。なんと死人さえ生き返ったという。これは一種の改良である。「治療塔」は、何ものかが人類を改変するために備えた装置としか考えられない。そのような改変が正しいのかどうか、「選ばれた者」たちのあいだでも意見は対立する。しかし、多数を占める肯定派は、汚染された環境でも生きられる改変された肉体を持っていま一度古い地球に戻り、「残留者」の支配の上に新しい社会を作り直すつもりなのだった……
 
 やっぱり、『風の谷のナウシカ』じゃなかろうか。
 
 もちろん、ちがいはいろいろある。『ナウシカ』のラスト(描かれたのは1993、4年)、“シュワの墓所”で明かされる人類の改造は、徹底的に計画的・人為的なものであり、改造された側は、その事実さえ知らない。『治療塔』で視点が置かれる「残留者」、つまり改造されていない方の人類は、『ナウシカ』では最終的に否定される側だった(いってみれば『ナウシカ』では、「残留者」の方が改造されている)。ナウシカと“墓所の主”のあいだで交わされる激論は、『治療塔』のリッチャンには、「新しい地球」で「選ばれた者」たちのあいだに起きたと伝えられるだけに過ぎない。何より、「共生」についての態度が真逆である。
 しかしそれでも私には、必要に迫られた人類の作り替え・もとの人類と作り替えられた人類の関係、といった発想のあり方が、大江健三郎と宮崎駿でクロスしているように見えてしまう。
 そんなのSFではよくある話だ、というのなら身も蓋もないのだが(私はあんまりSFを知らない)、そうだとしても、大江と駿はジャンルの伝統に依拠するのではなく、たぶん独力でそういう話を作っている。独力なのに交差した。そこが妙に面白かった。
(高校のとき、数学の先生が唐突に「私は宮崎駿はわかった気がするが、大江健三郎はまだわからない」と口にしたのだが、あれはこの対比を踏まえてのことだったのじゃなかったかと思う)

 勝手なことを書き散らしたついでに記憶だけで書くんだが、1994年に大江健三郎がノーベル賞を受賞したとき、受賞理由として「個人の悲しみを人類レベルにまで昇華した」みたいなことが挙げられていたと思う。どういう意味なのか私にはよくわからないのだけど、ナウシカ云々以外にこの『治療塔』を読んでいて何度となく浮かぶのは、「想像力がスケールを取り違えている」という感想だった。
 たとえば、「選ばれた者」のリーダーと「残留者」の指導者は、どちらも語り手リッチャンの親族である。もとの人類と改造人類とを分断する境界は、リッチャンと従兄弟との肉体関係で侵犯される。話が大きいのか小さいのか、めまいがする思いだ。人類を扱う構図が家族レベルに凝縮されているのか、家族の話が人類レベルに拡大されているのか、そしてまた、その手つきは巧みなのか、びっくりするほど粗雑なのか。いずれにしても小説は独特の歪みを持つ。たいていの作品でこういうスケールの混乱が起きる。バランスは、悪いというより狂っている印象。で、私にはそこが面白い。
 
 思いのままに偏った想像力を、破格にも見える日本語が支えている。そんな奇妙な建物を見るつもりで私は大江の小説を読んでいる。この人の小説は、ものによっては立派かもしれないし壮大かもしれないが、しかし何より、ひとつ残らず変なのである。
 上では『治療塔』のことしか書いていなかったが、続く『治療塔惑星』の方でこんなシーンがある。改造人類とのあいだに子供を作ったリッチャンは、「この風景こそまさに地球だと納得できる見応えのある」名所を見に行くことにする。それが「原爆ドーム」なのである。この小説の世界でも、ドームはあのままの状態で保存されていることになっているのである。
《――……広島が核爆発の火に焼かれていた間も、山のこちら側は緑で、谷間ぞいの道を傷ついた被爆者が顔の皮膚を子供のナプキンのように胸にたらしたり、背なかに恐竜の背びれのようにガラス片を突出させたりして、逃れて来たということだ。われわれの時代は、シンボリックにいっても、そのように逃れて行く緑地が狭められた時代だったね。
 ――やはりシンボリックにいうならね、朔ちゃん、私たちの顔の皮膚は剥けていないし、恐竜のガラス片の背びれもはえていないけれど、やはり死ぬか生きるかの境い目で宇宙の緑地をめざしたんだわ。[…]》p12

 ここでもやはりそういう話になるのかと、私はおどろいたのだった。これくらい変な人の小説を、たとえば政治的に「正しい」「正しくない」の尺度で測るのは、やっぱりズレているんじゃないかと私は思う。




治療塔 (講談社文庫 お 2-18)治療塔 (講談社文庫 お 2-18)
(2008/02/15)
大江 健三郎

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