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2008/03/08

穂村弘『短歌の友人』(2008)

短歌の友人
河出書房新社

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

 1990年に歌集『シンジケート』を上梓した穂村弘は、2000年あたりからこっち、短歌の実作のほかに『世界音痴』『もうおうちへかえりましょう』などとしてまとめられるエッセイをいろんな媒体で書くようになった。そしてその一方、おもに短歌の専門誌で歌論を書き継いでいたのである。
「である」と言いつつ、私は知らなかった。エッセイばかり読んでいた。そんな歌論・歌人論をあつめたのが本書『短歌の友人』である。この本のカバーは本当に固い。

 穂村弘は、同世代の短歌を読み、前の世代の短歌を読み、自分より若い世代の短歌を読んでいく。その読み方は丁寧で論理的、何より親切このうえない(『短歌という爆弾』も、たしかにそういう本だった)。
 現代の歌人をほとんど知らない私には、短歌というのは、言葉が使われる全領域のなかでも、あからさまに特殊な部分を占める表現のように見える。一首一首が反乱分子であるような歌のかずかずを、穂村弘は、まったく平易な言葉で解きほぐす。そこがすごい。
 複雑にひねくれていたり、別の空を飛んでいたり、そもそも何かを伝えるつもりがあるのか定かでないような歌を相手にしても、穂村弘の文章は、同調してそちらに飛んでいったり、沈黙したり怒ったり、派手な修辞に逃げたりしない。個別の歌に向き合い、その場その場で差し出されるのは、《言葉を軽く握る》とか、《我々の意識の死角に入っているような言葉》とか、《絶望に希望を直に上書きするような作歌スタイル》とかいった、歌に較べればずっと普通のフレーズである。それが、いちど目にしたあとではそれ以上にぴったりくる言葉を出すのが不可能に思えるくらい、ピンポイントで当の歌にはまっている。短歌への情熱が明快さとして出力されている印象。
 
 そんな穂村弘に申し訳ないほどおおざっぱな分け方をすると、この本の前半では、おもに自分と同世代か、自分より若い世代の短歌を読み、それがどうしてそのような形になっているのか、それにより彼らは何を表現しているのかについて交通整理をしている。後半ではさらに視野を広げ、〈近代〉短歌と〈戦後〉短歌への考察が加わって、前半の整理を成り立たせる構図があきらかになっていく、といった感じの構成になっている。前半でも後半でも、視線はたえず現在の短歌に注がれている。
 とりあえず前半で紹介されている歌のなかから、なにか私に引っかかったものを書き写す。こうやって横書きにしてしまうと、それだけで別物のように見えるが仕方ない。脳内で縦書きに変換してほしい。
女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る
斉藤斎藤

形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり
大口玲子

運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり
奥村晃作

すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
飯田有子

 それともうひとつ、
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
飯田有子

 私の自力ではまったく歯が立たなかったこの歌に、穂村弘は繰り返し触れて、「ああ!わかる! ……気がする」まで連れて行く。無理にタイトルに合わせれば、穂村弘は、「こいつはこれこれこういうやつなんだよ」と友達を紹介するように、短歌を紹介する。なかには友達になりたくないような短歌もあるが、紹介じたいには納得している自分に気付く。なんて友達甲斐のある友人だろう。これほどのわかりやすさはちょっと危険ではあるまいか、と思わせるほどに、よくわかる(気がする)のだった。

 それだけでもすごいのだが、いよいよ面白いのは後半だった。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
斎藤茂吉


日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も
塚本邦雄(原文は旧字旧仮名)

〈近代〉短歌と〈戦後〉短歌をそれぞれ代表するらしいこの二首の決定的なちがいは、「言葉のモノ化」であると穂村弘はいう。どちらの歌にも動物が出てくるが、前者の“かはづ”が本物の、生きた“かはづ”なのに対し、後者の“皇帝ペンギン”という言葉は、モノである。
 近代短歌のモード(短歌=命の器)へのアンチとして出現した、「言葉をモノとして扱う」モードから、以降の世代は何を継承し、何を継承しなかったのか。そして、いま短歌の言葉はどうなっているのか。本書の第4章「リアリティの変容」から第5章「前衛短歌から現代短歌へ」、第6章「短歌と〈私〉」に書かれてあることは、短歌に即した短歌についての考察でありながら、短歌以外の言葉にも、そしてそのような言葉で作られる時代そのものにも(!)射程が届いているのじゃないかと興奮して読んだ。ここの順序が「短歌 → 言葉 → 時代」であるのが、批評というものなんだと思う。矢印を逆にして、時代から短歌を読んだりしたら、いっそ読まない方がよかったような結果にしかならない。そうではないから穂村弘にはこんなことが書ける。
《前衛短歌運動が挑んだ課題のうちの幾つか、例えば虚構性の導入による〈私〉の拡張は、今日では殆ど歌人の問題意識にのぼらなくなったようにみえる。
 だが、それは定型内の試行によってハードルがクリアされたことを意味しない。そうではなく、現実の我々を取り巻く時代状況が変化したことで、自然に問題が解消されてしまった感が強い。表現の試行を上回る速度で我々が日常的に吸っている空気の方が変化してしまったのだ。》p154

 で、読んでいる途中からずっと思っていたのだが、先に書いた「短歌 → 言葉 → 時代」の、「短歌」を「小説」に変えれば、穂村弘は相当程度まで、高橋源一郎になりそうである。
 この符合は意外ではない。むしろ、“意外でなさ”が大きすぎて驚いた。穂村弘が『日本文学盛衰史』の一部に協力したり、『ゴーストバスターズ』文庫版の解説を書いたりするよりずっと前、私がこの人の短歌を知ったのは、高橋源一郎が『文学じゃないかもしれない症候群』『シンジケート』に強く反応していたからだった。そこで引用されていた数首にすっかりうちのめされて『シンジケート』を買ってくると、短歌もやっぱりよかったが、あとがきの代わりについていた散文は“高橋源一郎でない人が書いた『さようなら、ギャングたち』”とでもいうべきもので、そこにもすっかりうちのめされた。
 以来、私はふたりの感性を並べて見ているが(両者の本を読めば誰だってそうなる)、そんな刷り込みがなかったとしても、たとえば本書のなかで、現在のリアリティの掴み方を追いかけた結果、「合目的的な意識から外れたところで生まれる歌」に到るあたりは、『ニッポンの小説』とかなり似た曲線を描いていると思う。
(もちろん、似ているからこそはっきり見えるちがいもある。塚本邦雄の本を一冊も読んでいない私の予想では、「塚本邦雄が持っていて、穂村弘から抜け落ちているもの」と、「高橋源一郎が持っていて、穂村弘から抜け落ちているもの」は、量の多寡はあれ、同種のものじゃないかと思われる。名前を付けるなら“ジョン・レノン対火星人”成分、ではないか)

 ともあれ、『短歌の友人』はたいへん面白い本だった。
 私のような短歌の素人にこれだけ面白くまとまりをもって読ませるからには、短歌の世界のすべてからしたら、ここには書かれていないことも相当あるんだろうと思われる。本書で教えてもらった「わかり方」であんまり「わかる」「わかる」というのは、もしかすると論じられている歌の作者の、ひいては穂村弘の、意に反するのかもしれない。
 だから私は、さまざまな歌集の現物はもちろん、非・穂村弘の立場から現代の短歌を読み解いた本も読んでみたくなった。そして願わくば、そういう本も穂村弘と同じくらいに丁寧で、かつ過激であってほしいと思う。
 以下、最後の長い引用は、前掲の斎藤茂吉(かはづ)と塚本邦雄(皇帝ペンギン)の対比からみちびき出される考察である。丸2ページ分から、1ヶ所しか中略できなかった。
《[…]我々は次のような印象を抱かないだろうか。すなわち塚本邦雄の歌は確かに凄い、でもどこかオモチャのようでもある、一方、斎藤茂吉の歌はやはり凄い、そして全くオモチャのようではない、と。この印象の違いはどこから来るのだろう。
 斎藤茂吉の歌を支えているものを、私は生のかけがえのなさの原理だと思う。他人とは交換不可能な、一度限りの、かけがえのない〈われ〉の命の重みによって、その作品は保証されている。だが作品の説得力とは、それ自体が独立して存在することはあり得ず、常に読者に対する説得力ということでしかないはずだ。そう考えるとき、現在の読者の目に茂吉の歌が全くオモチャのようには見えず、凄いとしか感じられないとしたら、それは我々が〈近代〉的な生のかけがえのなさの原理に、今なお強く呪縛されていることの証とは云えないだろうか。〈近代〉という時間が、茂吉作品における生のかけがえのなさの原理を支え、今も支え続けているのである。
 一方、塚本邦雄の作品の核にあるものを、戦争への呪詛と言語のフェティシズムの原理として捉えてみる。生のかけがえのなさの原理を〈近代〉が支えたように、戦争のモチーフと言語のフェティシズムを〈戦後〉という時間が確かに支えたはずである。だが、それによって生まれた成果が我々の目にオモチャのように映る部分を残しているとしたら、それは、生に対する影響力の点で、〈戦後〉という時間が生んだ最大のものすら〈近代〉の産物に及ばなかったということになりはしないか。
 オモチャ的な印象を負っているのは、主に言語のフェティシズムの要素だと思う。それによって短歌定型は空間化して言葉はモノ化した。〈戦後〉の空気の中で、我々は揃ってそのような言葉のモノ化にどっぷりと浸りながら、しかし心からそれを受け入れ納得することはできなかったのだ。
  […]
 本当は(という云い方は無意味だが)子規も茂吉も、塚本同様に短歌をオモチャ化したはずなのである。すべての変革とは、その瞬間を切り取れば常にオモチャ化とイコールなのだから。ただ今日の我々の目にそのように映らないだけである。その理由は、繰り返しになるが、我々が今もなお〈近代〉のモードの内部を生きていることに拠る。》pp212-3

 ここには、穂村弘の短歌や高橋源一郎の小説を楽しく読む私にも、いったいそんなことを考えてしまっていいのだろうかと、その先に進むのを躊躇させる考えが示されているように見える。「壁に向かって手をあげなさい」。

コメント

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黒柳徹子公式ファンクラブの名をオニオンというはまことか(生沼義朗)

こんちは!
近代以後を示すあの言葉を絶対に言わないdoodlingさんが俺は好きです。
飯田有子ってなんか持ってるもんありますね。

ところで、巷で出ている小手川ゆあの短歌漫画ってアレどうなんでしょう。お勧めするようなもんでもないとしても、誰かと共有したくなるモヤモヤ感を生むことは必至なのですが。

音速はたいへんでしょう 音速でわざわざありがとう、断末魔(笹井宏之)

ねこじゃらしに光は重い 君といたすべての場面を再現できる(永田紅)

ども。
>穂村弘と同じくらいに丁寧で、かつ過激であってほしい

丁寧はともかく過激ということなら
中井英夫『黒衣の短歌史』
がおもろかったです。塚本邦雄や寺山修司を見いだした名伯楽ぶりもさることながら、苛烈な文章がよいです。

関川夏央『現代短歌そのこころみ』
斎藤茂吉から穂村弘まで、現代短歌の歴史的な背景を書いてておもろかったです。個々の歌についてはあまりつっこんだ読みをしてませんが。

小林恭二『短歌パラダイス 歌合二十四番勝負』
小林恭二の解釈がおもろかったです。現代短歌を(多分)代表する歌人の歌と、互いの解釈も楽しめて一石三鳥というか。

既読だったらすみません。

ひざこぞううつくしいのはつくりものきみはひとりで見つけなさいね (本田瑞穂)

どもども

逆順でお返事を。

> 麝香さん

『短歌パラダイス』だけ読んでました。ありがとうございます。

> 塚本邦雄や寺山修司を見いだした名伯楽ぶりもさることながら、苛烈な文章

そう、「怖い」という印象がまず来るのが、やっぱり時代なのでしょうか。


> hantikaさん

> 近代以後を示すあの言葉を絶対に言わないdoodling

ボードリヤール吹いた。てか、考えすぎです。
「小手川ゆあの短歌漫画」というのは知りませんでした。
すごいものがあるんですね。
あと、以前おすすめいただいた福満しげゆきの漫画は、
何度か本屋で手に取るものの、なにものかがレジに持っていくのを阻みます。もうちょっとがんばってみます。


> 最初にコメントいただいた方

このブログ、「コメントしてくれた人にのみ見えるように返信」できるのか
よくわからない(ためしたことがない)のでここに書いてしまいますが、
ええと、『シンジケート』は是非。
「谷川俊太郎の短歌」は存在を知りませんでした。さがしてみます。

みなさんありがとう。
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