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2004/04/01

その7 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次

“But aren't you even interested?”
“In what?”
“In what you might find out.”
 As things developed, she was to have all manner of revelations. Hardly about Pierce Inverarity, or herself; but about what remained yet had somehow, before this, stayed away. There had hung the sense of buffering, insulation, she had noticed the absence of an intensity, as if watching a movie, just perceptibly out of focus, that the projectionist refused to fix. (p10)

《「だけどあなた、興味がないのかな?」
「何に対して?」
「何が飛び出してくるかってことに、さ」
 事態が進行するにつれて、あらゆる種類の啓示が出てくることになった。ピアス・インヴェラリティにも、エディパ自身にも、ほとんどかかわらないことなのだが、これまで存在していながら、なぜか、いままで見えていなかったものにかかわっていた。なにか干渉阻止的な、絶縁体的な感じがたちこめていて、ある種の強度というものが不在であることにエディパは気づいていた。まるで、わずかにそれと感じられるくらいに焦点がぼけているのに映写技師がなおそうとしない映画を見ているようなのだ。》p21/pp23-4

 一読して何のことかわからない。それはいいのだ。
 問題にしたいのは、この地の文とエディパとのあいだに開いている距離である。
《事態が進行するにつれて、あらゆる種類の啓示が出てくることになった。》

 エディパの探求は、いま始まろうとしているところである。それなのにこんなことが言えるからには、地の文は彼女より先にいる。もっといえば、すべてが終わった時点から、振り返るようにして主人公の言動を描いている。小説が三人称の過去形で語られるというのはそんな意味合いをもつだろう。

 あらかじめ書いてしまうと、Lot 49 の進行はかなりふつうである。作中の時間が追跡不能なまでに入り乱れたり、とつぜん形式が変わって以後戻らなかったりといった構成上の大仕掛けはない。視点人物はほぼつねにエディパだし、時間はまっすぐ進んでいく。
 そういう小説はいくらでもある。山ほどある。というか、ほとんどの小説はそうである。それなら、引用したような書き方もありふれたものではないのか。
 そうではない、という理由を説明するためにはもう少し読み進めないといけない。
「主人公と、主人公を描く語りにズレがある。それはまあ当たり前な気もするんだけど」ということで、ズレるたびにしつこく指摘してみよう。そう、このズレは、何らかの意図をもって繰り返されるように見えるのである。

…続き

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