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2008/02/09

ミルハウザー『ナイフ投げ師』 3/3



 まだ『ナイフ投げ師』の続き。

 どの短篇にも想像力と描写力があふれかえり、小説のなかでは両者は同じものだったことを改めて思い知らされる。ミルハウザーは技術の限りを尽くして自分の世界を作りあげる。どんな作家もそうしてるんだろうが、ミルハウザーほど“作品で扱っている事物”と“作品そのもの”が似ているケースはほかに思いつかないので、上の印象が強くなる。
 なかでも圧巻なのは「新自動人形劇場」「協会の夢」「パラダイス・パーク」だが、続けて読むにはいくらなんでも重たすぎてしんどいだろうこの3つのあいだに、比較すれば軽めといえる作品が挟まれている。この配置も絶妙だ。
(「重たい」というのは、テーマが深刻とかそういう意味ではぜんぜんなく、食事の量が多すぎて胃にもたれる、というのと同じ意味で「重たい」)

 もう少し詳しく書いてみる。

「重たい」短篇ほど、読み終えてからどんな話だったか考えてみると、面白い細部を次から次へと思い出せるので驚くことになる。あんなに短いページに、どうしてあんなにたくさんの細部を詰めることができたのか不思議になるほどだ。
 ディテールの量からすれば自重でつぶれかねないほど「重たい」短篇を、うねりながらも前へ進ませているのが「分析」という語り口だと思う。上記の3篇とも、それぞれ自動人形の名匠の作風とか、百貨店のあたらしい趣向、遊園地の変遷といったものを、分析家の記述に乗せて語っている。
 さまざまな変化は時間の軸に沿って説明され、部外者からの異論・反論も紹介されて、基本的には全肯定へ向かっていく(全肯定以外に、こんな大がかりな分析のモチベーションはあるはずがない)。
 それが語り口なんだから、「描写」というのはもちろん、この「分析」の枠のなかで行われ、四方八方に広がっていく。

 言ってみれば、自前の発明品について、自前の専門家に語らせた記述をもって“作品”としているのであり、加えて、“作品で扱っている事物”と“作品そのもの”があまりに似ているから、作中で行なわれる前者へのコメントは、後者へのコメントと区別がつかなくなる。
 前回分で引用した部分をはじめ、たいていの短篇には、ミルハウザー作品への自註として読める部分がたくさんある。例えば下の引用は、いま「協会の夢」から見つけたもので、百貨店の内装についての描写だ。これは、ゆっくりゆっくり、読むべきものだろう。
《左右に蛇行する薄暗い通路に沿って、高脚付きのたんす、ガラス扉の本棚、小仕切り棚を備えたロールトップデスクが並んでいたかと思えば、一気に視界は明るく開けて、ピンクや緑の髪、まばゆい黒のサテンや白のレースを着た長い脚のマネキンが集っていて私たちの度肝を抜く。ガラスのカウンター上のあちこちに、狂える殺人鬼の自宅地下室に転がる切断された手足のごとく、女性の身体の下半分が逆さまに、脚を宙に突き上げる格好で置かれ、小さな緑の宝石をちりばめた黒光りするストッキングをはいた上下逆さのそれら脚たちの方へ私たちが進んでいって、ふと周りを見てみると、自動霜とり冷蔵庫や三層式食器洗い機やデジタル表示の電子レンジなどのただなかを私たちはさまよっているのだった。短い黒髪の、退屈そうな顔をした、売場から抜け出てきたように見えるマネキンが冷蔵庫に寄りかかって立ち、イタリア製の最新型ブラジャー――一本の金の糸がまっすぐ胸を横切り、ハート形の留め金で背中で留めるようになっている――をあらわにしていた。店内いたるところにガラス張りの案内図が掲げられているものの、こうした移行や混乱は、むしろ迷子になるよう私たちを誘っているふうに思えた。そして迷子になることを何より望んでいる私たちは、百貨店の豊饒感を増してくれるもの、売場の無限の増殖をひそかに願う思いを満たしてくれるものなら何であれ歓迎する気持ちで、曲がりくねった通路をさらに奥へ進んでいった。》pp161-2

 前半のこまごまとした、それでいていちいち意表をつく事物の行進を順番に追っていくと、ブラジャーのあとあたりから語り手の感想があらわれ、それはたしかに描かれた百貨店について述べられたものなのに、同時に、百貨店を描出するそこまでの文章に対しての感想にもなっていて、私は「ここ、すごいことが起きている」と仰天しながら、曲がりくねった文章をさらに先へ読み進むことになる。「すごいことが起きている……はずなのに」という気持ちで。

 小説の記述でありながら、この小説についての記述と見分けがつかない。これは相当におかしい事態のはずだが、さらにおかしいことには、ミルハウザーにはこんな例がいくらでもあるのだ。この短篇集についていえそうな言葉は、賛辞も非難も、収められた短篇のあちこちにあらかじめ書き込まれている。そんな気がしてくる。
 ミルハウザーは、普通の顔でそういう真似をする。すごさのひけらかしがまったくない。その結果、この人の小説はものすごく完結した外観を持つことになる。内側だけで充足した、極度に人工的な世界。丁寧な丁寧なマッチポンプ。
 だからこの作家の姿勢は、すごくストイックなんだと思う。すごくストイックなのに、できあがった作品は自由奔放、自分の好みのままに人形や地下室や夏の夜の裏庭など狭くて小さなところへ分け入って、魅力的なディテールを喜々として汲み出してくる。

 いっぽう、入念に作為を凝らし、文章を磨いて自分の世界に立てこもってしまうのは、「自閉的」と責められてもおかしくないように思う。でも本当にそうなんだろうか? 疑問形にしておいて何だが、私には、どうもそうは思えない。
 というのは、この『ナイフ投げ師』を読んでいるあいだ、つまり、ああ私はこういうのほんとに好きだと思いながら、細部にツボを押され、自分のあたらしいツボを発見もし、もっと読みたい、でも読み終わりたくない、と楽しく煩悶しているあいだ、ずっと気になっていたのは、これほど完璧に作られた人工的な世界に、自分がこれほど夢中になって入り込んでいるのはどういうわけなのか、ということだったからである。よろこんで内側に入り込んでいる人間が「この作品は自閉的だ」と言うのは、たぶん、おかしい。
 どれだけ自閉的に見えても、どれだけ完結しているように見えても、これらの短篇には、どこかに入口が開かれているはずである。それはどこなのか。私はどこからミルハウザーの世界に入るのか。
 子供時代へのこだわり? 人工的なものへのあこがれ? あるいはそういうのぜんぶをひっくるめ、「こういう感じのが好き」という曖昧な好みとしてだけ自覚されていて、自分では具体的に想像できないでいたものを、はるか先まで実際に描いて見せてくれる、要するにこちらの想像の肩代わりをしてくれる、という点?

 いや、そういうものはみんな作品の内側にあるのだから、いきなりは見えてこない。それらが待っているところまで読者の私を連れていく入口は、多くの短篇で採用されている、一人称複数の「私たち」なんだろう。
 一人称でありながら、およそまったく自己主張しないこの語り手のいる位置は、「ナイフ投げ師」で最も効果的に示されているように、傍観者であり観察者、つまり読者のそれとほとんど重なるよう調整されている。「パラダイス・パーク」までくると、そんな一人称さえ排し、遊園地の歴史を述べた文書という体裁が選ばれる。これもおそらく、いちばん「重い」作品にこちらを引き込む手法だろう。突飛な品々を陳列するには、通路はなるべく平坦な方がいい。

 しかしそれくらいのことは読んでいる最中からわかるわけで、このように書いてきても、どうしてあんなことができるのか、と驚きあきれる思いは強まるばかりだ。「あんなこと」とはつまり、読者と一緒に歩くふりをしながらじつは半歩先に立ち、書かれてある通りの感慨をこちらも抱くよう誘導していく語り口のことである。何かを描きながら、その対象にどんどん似ていく文章のことである。
 たまたま、1回だけ奇跡的にできちゃった、というならまだわかる。でも、ミルハウザーは何回も何回もそういうトリックを仕掛けて、そのたびに私は引っかかるのである。何度読んでも、どこから見ても、そこの仕組みがわからない。わかる気配もない。おそらく、わからない作家がいるのはしあわせなことだと考えて、旧作を読み返し、新作を待っていればいいんだろうとは思う。
 しかしどうしてもそれだけではもったいない気がして、なるべくたくさん引用し、なるべく繰り返し「すごい、すごい」と言ってまわりたいのである。この公演の呼び込みに私はなりたい。「呼び込みがキモい」という文句はこの際しかたがない。そんなわけで、この感想で最初に引用した「ナイフ投げ師」の冒頭を、もっと長く書き写す。
《ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行なうと聞いたとき、私たちはとまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。ナイフ投げ師、ヘンシュ! 私たちは嬉しさのあまり手を叩きたかったのだろうか、踊り上がって期待の笑みを満面に浮かべたかったのだろうか? それともやはり、唇をすぼめ、厳めしい、とがめるような表情で目をそらしたくなったのだろうか? いかにも相手がヘンシュならではの迷いである。自他ともに認めるナイフ投げの名手。実体もほとんど知られていない、困難な、どこかうさん臭さがつきまとう芸の第一人者であると同時に、この人物にある種の不穏な噂がつきまとっていたこともまた否めない事実なのである。日曜版の文化欄に時おり現れるそんな噂に十分な注意を怠ってきた自分を、私たちはいまになって責めるのであった。》p9

 もったいぶった生硬さを少しだけ残す、子供が背伸びをしているような、それでいて、そういうものとして限りなく流暢でもあるこの文章を、私はぜんぶ丸めて玉にして(たぶん、わりと鈍い色だと思う)、一日じゅう口のなかで転がしていたい。そんな作家、ほかにいない。



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(2008/01)
スティーヴン・ミルハウザー

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