趣味は引用
スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(1998) 1/3
ナイフ投げ師
柴田元幸訳、白水社(2008)

 短篇集。収録作について順番に書いていきたいのだけど、とにもかくにも、最初に置かれている表題作「ナイフ投げ師」がものすごい。立ち読みでいいから読んでみてほしい、とりわけミルハウザーを読んだことのない人に読んでみてほしい、と思った理由をこれから書く。
《ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行なうと聞いたとき、私たちはとまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。》p9

 こんな一文からはじまるこの短篇には、場所も時代も特定できる手がかりがない。そういう情報がすべて省かれ、ただ、この怪しげなナイフ投げ師の名声と、それに伴う不吉な噂がたたみかけられるのを一ページ、二ページと読んでいくうちに、読者の私は、語り手の「私たち」と一緒になって、土曜の八時、公演の客席に並んで座っているのに気付く。
 そうなると不思議なもので、この短篇には、それを読む読者の思いがそのまま引き写されているということになる。
 登場したナイフ投げ師ヘンシュが、アシスタントの投げる白い輪を次々に狙い撃ちして板に射止めていく技巧と、それを描写する文章の的確さに舌を巻いているところにあらわれるのは、こんな述懐だった。
《私たちはたしかに感じ入った。ヘンシュのあっぱれな大胆さに、私たちは魅了された。とはいえ、痛いほど強く拍手しながらも、私たちはいくぶん落着かない、いくぶん不満の混じった、あたかも何か口にされなかった約束が守られなかったような気持ちだった。この公演を観にきた自分を、私たちはかすかに恥じていたのではなかったか?彼のいかがわしい悪ふざけに対し、越えるべからざる一線を彼が怪しくも越えてしまったことに対し、あらかじめ眉をひそめていたのではなかったか?》p15

 どうして、いまの自分の気持ちがページの上に書いてあるのか?
 もちろん、そんな思いは錯覚のはずである。ところがこの錯覚を意識したとたん、醒める、というのとはまるで反対に、いよいよ私はヘンシュの公演へ引き込まれていく。あとは身動きもできない。続くのはこちらの期待にたがわぬ芸であり、すなわちアシスタントの女性が板の前に立つ。
 当然、そこから話は盛り上がっていくわけで、舞台上のナイフ投げ師は一投一投、段階を踏んで、こちらの期待をひとつずつ叶えようと(射止めようと)するかのようにナイフを投げる。その動作のいちいちに私は息を呑む。
 しかし、ほとんど空恐ろしいような気持ちをおぼえたのは、そこに到るまでの導入のなめらかさだった。それによって、以降すべて、読む側の抱くだろう予想と感想が、小説の内容になっていく。この継ぎ目のない手触りは、ごく自然と言って済ませられるものだろうか。むしろ、徹底的に不自然なんじゃないか。
 文章を追いつつ、そんなことをあたまの片隅で考えているあいだにも、「ナイフ投げ師」はこちらの願望をどんどん実現しながらラストへ向かう。そこには、予想をひとつも外さないまま予想を越えた幕切れが用意されている。私はやっぱり語り手たちと一緒に劇場を出ていく。ものすごいものを見てしまった、しかしちょっとやりすぎじゃないのか、と思いながら。
 それなのに、この短篇はぜんぶで19ページしかない。読み終わって茫然としているその先に、ほかの短篇が続いていく。導入のなめらかさでこちらを圧倒した短篇が、短篇集の導入になっている。
《外れた――外れたのか?――私たちは失望がぐっと鋭く心を引っぱるのを感じ、次の瞬間それは恥に、おのれを深く恥じる思いに変わっていた、なぜなら私たちは血を見たさにやって来たわけではないのだ、私たちはただ――何か別のものを求めて来ただけなのだ。》p18

  あとに続く短篇の数かずは(「何か別のもの」は)、言うなれば、ヘンシュの左手に扇の形で広げ持たれたナイフであり、舞台を見つめる私の前で、ヘンシュだかミルハウザーだかは、かえすがえすも異常としか思えない技量で一本ずつナイフを投じていく。目が離せないまま私は思う。
 何もそこまで描写の腕を上げる必要はないんじゃないのか。短篇集の始まりは、ここまでうまくなくてもいいんじゃないのか。そして、ちょっとやりすぎじゃないのか。
 つまり、どこまで行くのか見たいのに、それを見るのが怖くもあるのである。

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