趣味は引用
セカンド?

前回…

 前回、榎本俊二の『ムーたち』で描かれる“セカンド自分”について書いているうちに、どんどん長くなったので削除した部分があり、そこのところをあらためて書いてみたい。
 まず、あのときはこう書いた。

“セカンド自分”の絵を目にして、この人なら、と私は思ったのである。この人なら、私が子供の頃からときおり感じていた、「学校の教室とか飲み会だとかといった、まわりがみんな自分の知っている人間であるなかで、たまたま自分がひとことも喋らないまましばらく時間がすぎたときとつぜん発生する、自分の意識だけがその場から浮き上がっているような、あの感じ」を、絵にしてくれるんじゃないだろうか。そう思って興奮した。

 ここから補足。というのは、おぼえている限り、この感じについて、これまで人と話したことがないので、説明が通じているか不安なのだった。
 この感じは、「自分はまわりのみんなを知っているつもりでいたけど、ほんとは誰の何をどれだけ知っているというのだろう、と思い到って愕然とする」――などというのとは、そもそものレベルというか、質のちがった違和感で、意識の発する場所が普段とは別のところに移る、みたいな状態になっている。
 おそらくそのときの私は、目の前の状況を、自分の目を通して「内側から」見ているのはもちろん、それと同時に、ガラスケースの中をのぞくように「外側から」見ている。そう感じているせいで、まわりの声の聞こえ方もちょっと遠くなる。その状態のときも身動きはできる(が、じっとしている方がこの感じは長持ちする)。直接私に向かって話しかけられたり、自分から声を出すと、意識は元に戻る。
「外側から見ている」といっても、目は自分の外にはないから、「外側から見ている」というのは「外側から見ているように感じている」のに決まっている。それは「意識が外側に出ていると感じている」のとたぶん同じだろう。

 こう書いてきたことを自分で読み直してみると、「“セカンド自分”を描きえた榎本俊二ならこの状態も絵にしてくれるかもしれない」、というよりも、「この状態こそが“セカンド自分”だ」、ということになりそうである。でも、一部は重なっているにしても、完全に同じものではないと思う。というのは、私にとって、『ムーたち』で描かれる“セカンド自分”に相当する感覚と、上の感覚は、別だからだ。“セカンド自分”は“セカンド自分”で、ほかにいる(なにより、状態の発生するきっかけがちがう。こっちの感覚は、自分ひとりでいるときには絶対起こらない)。

 私の感じでは、という話しかしていない。
 通じているだろうか。

 もっとも、私だけの感覚、などというものはあるはずがないので、この「自分が外にいる感じ」も、そんなに特別なものではないと思う。誰にでも、ではないかもしれないが、多くの人におぼえのあるものだとは思う。これには何か「○○感」のような名前があるのかどうか。いまそれが知りたい。

 そしてもうひとつ知りたいこととして、ここからを本題にしたいのだけど、
この感覚を描いているフィクションはどれくらいあるんだろうか。
 ささやかながら(なにしろ自分の中で完結している)、しかし相当に不思議な感覚なので(なにしろ自分の根っこがズレる)、それを描いている作品がないはずはないと思うのである。
(自分の根っこがズレるというより、自分の表層だけがズレる、という感じである気もする。うまく言葉にできない。だからこそ、それを他人がどんなふうに表現しているのかを見てみたい)

 この感覚や“セカンド自分”をひっくるめて、「意識の錯覚」ネタ、あるいは、「いつもとはちがった意識のあらわれ」ネタ、とまとめてみれば、思いつくものはいくつかある。川上未映子のほかにも、カラスヤサトシが、似たような感じを描いていた。『カラスヤサトシ』第2巻の114ページ。セリフだけ書き写す。
  知人は27歳の今でも
  親の顔をじっとながめて
  (……あれっ……
   この人なんで……
   私のお母さんなんだろう……)
  と思うことができるそうで……
  そういや 子供のころ
  そんな感覚あったなあと
  (その間 音はまったく
   聞えへんねん)
  (わかる わかる!) (後略)

「子供のころ」というのが引っかかるが、この知人の感じ方も、私はわかる気がする。そして「わかる わかる!」なんだから、もっとネタになっているんじゃないかと思う。

 (1) あまりにありふれているのでネタにならない
 (2) けっこう共有される感覚なのでネタになっている(が、私が知らない)
 (3) 感覚としてはけっこう共有されるが、ネタにする人はあまりいない
    (だからそれを扱ったフィクションは少ない)

 わざわざ書いてきた手前、これが(1)だったらちょっと残念であるのと同時に安心もするのだが(←小市民)、(2)か(3)であるなら、私は猛烈に読んでみたい。読みたい本はいろいろあるが、この「自分が外にいる感じ」を扱っている作品以上に読みたいものは、ない。これを扱っているかいないか、というもの以上に大きい二分法は、ちょっと思いつかない。

 おぼえているなかで、この感じを小説で表現してくれているように思えた筆頭は、保坂和志だ。『世界を肯定する哲学』や、ほかのエッセイふうの本でも、意識と記憶をめぐるもっと大きな問題へつなげていく過程で、これに近い感覚のことを扱っているように読める部分がいくつもある(たしかこれを称して、世界と自分は別々にあるという予感、みたいな言い方をしていたはず)。とくに長篇『カンバセイション・ピース』では、小説をしめくくる大仕掛けとして、まさにあの感じが使われているんじゃないかと思うんだけど、そこのところを説明するのはおそろしく手に余るので今日は省略。
 そして無茶な方向に飛ぶと、佐藤亜紀の『天使』がある。「自分が外にいる感じ」を、この小説は、実際に外界へ影響を及ぼす超能力に重ねて描いているんだ(!)、と興奮しながら読んだおぼえがあるのだが、いま、私はひどく電波なことを書いているのだろうか。もうなんだかわからない。

「お前の言いたいことはわからなくもない。そしてこんな本がある」という方がいらしたら、ご教示いただきたいと思うのだった。小説でも漫画でも、あるいはどちらでもなくても、きっと読みます。
コメント
この記事へのコメント
いつも楽しみに拝読しています。

数コマだけですが、福満しげゆき「僕の小規模な失敗」はいかがでしょう。酔ってからんだ女の子に後から電話をかけながら、一方、そんな自分を天井から見下ろして、

「すごく…客観的に自分が見えてるぞ…ずいぶん下の方の遠いとこに自分がいる感じがする」(p.78)

「そんなんじゃねえ」って言われそうだな。
2008/01/28(月) 22:17:57 | URL | hantika #-[ 編集]
こんにちは
情報どうもです。
いや、まさにそういうものです。
というか、そういうもののはずです。

日常で「あの感じ」をおぼえるのはごくたまにであり、違和感としても小さいものなので、表現されるときは小ネタとしてあらわれるのが多いのかなと。

そう考えるとけっこう頻繁に扱われている感覚だという気もしますけど、

・それをあえて大々的にフューチャーしている
・でも、ドッペルゲンガーがどうこう、みたいなところまで行くと
 もう別の話だと思うので、あくまで「小さい違和感」に踏みとどまっている

「あえて」「あくまで」って矛盾してるようですが、
そんなものを夢見つつ、小ネタを集めていきたいと思ってます。
2008/01/29(火) 06:31:33 | URL | doodling #OtUrN.LY[ 編集]
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