2008/01/23

榎本俊二『ムーたち』(2006‐7)

ムーたち 1 (1) (モーニングKC) ムーたち 2 (2) (モーニングKC)
講談社


 小学生の虚山ムー夫と、その父親が中心になって、脳の裏側が痒くなるような言動を繰り広げるこの漫画、「擬音がかわいい」「絵がかわいい」(不気味な父の姿も、不気味なものとしてかわいい)のは間違いないが、どこがどう面白いのかを書こうとすると、なぜか難しげになってしまう。とてももどかしい。
 というのは、面白さの元はたぶんすごく単純なことのはずだという確信だけはあるからで、いったいどうまとめればいいのか、きのうから考えている。
 思考実験の漫画化、と書いてもハズレではないと思う。しかしもっとまとめて言えば、これはなんでも絵にしてしまう漫画だ、ということになる。

 まとめすぎた。とりあえずふたつに分けてみる。

■ まず、名前や生年月日の順列組み合わせや、「しりとり」の反対のゲーム「しりとらず」(第1巻9話)のような、ルールを漫画にする、という系統の話がある。これらの場合、ルールそのものが無茶なので、まずそこに気を取られてしまうのだが、無茶なものでも普通のものでも、ルールじたいは目に見えないものだから、それだけを提示することはできない。ルールに従って動く登場人物を描くのが、「ルールを絵にする」作業だと思う。
 それって、ルールという透明なものに絵という不純なものをまとわせるわけだから、ぜったい不完全な出来になるはずなのに、読んでいると、絵にしたことで、かえってルールがむきだしになっているという感じを受ける。陰も日向もない、ルールだけが残る。やはりルールは絵を必要としなかった。絵にされたことでそれがわかる。
 でも、ここの順序は逆かもしれない。実際に行なわれているのは、(1)ルールの一部分一部分を絵にして、(2)その過程でもってルールの全体を明らかにしていく、という順番であるはずだ。であれば、絵で描かれる前にルールはなかったことになる。そうなるとルールは絵と不可分である。絵にされたことでそれがわかる。
 逆にしてみても、出てくる感想は同じだった。いずれにせよ、実体がなくてルールだけがある状況さえ漫画にできる(してみた)、というのが、第1巻の18話「オンリーロンリーナンバー1」と、続く19話「競技名未詳」だと思う。そこでは、何の役にも立たず何の内容もなく何の意味もなく、ただルールだけは厳密に定められた運動が、虚山親子によって演じられる。いわば純・ルールの実践である。
(どこかで飛躍している気がする。いまの私はこの2話があんまり好きすぎて、このページにくると思考停止してしまう。で、読んでいるあいだは気付かなかったのに、いま書いていて思いついた。これをそのまま文字にしたようなものが、『パンタグリュエル物語』のこの競技である! ただしこちらの場合、戦っている2人に理解されているぶんだけ「内容」も「意味」もあることになるから、ルールの純度は落ちる)

 このようにあたらしいルールを発明していく虚山親子の対極に、“規理野くん”というキャラがいる。彼は、実際に発生した物事のさまざまなデータを集めて数値化することによって、世界のルールを発見しようとする。両者のアプローチは真逆になっていて、自前のルールで遊んでしまえばいい虚山親子に対し、データの収集は永遠に終わらないから、規理野くんはつねにぜったい、分が悪い。それでもこの漫画は、規理野くんを否定しない。方向が正反対なだけで、両者は同じことをしているからである。
(と書いておきながら、これも飛躍している気がする。虚山(父)が規理野くんにかける言葉が好きすぎて、ここでも私は思考停止する。自分の部屋の間取り図に記した汚い箇所と、都内の地図に記したゴミ屋敷の分布が似ていると主張する規理野くんに対し、虚山(父)の返答は「似ているといえば 似ているし 似ていないといえば 似てないね」。この態度は最後まで変わらない。虚山(父):ムー夫はもちろんのこと、虚山(父):規理野のあいだにも親子の関係が見えてくる)

 もっと正直に付け加えれば、あらゆるデータを集め尽くすことで世界が手に入れられるという、規理野くんの体現する発想は、ものすごく懐かしいのである。誰でも通る道だから、と言い切れるのかどうかは自信がない。もう信じていない、と言い切れるかどうかにも自信がない。

■ 次に、意識の拡張、みたいな系統の話がある。出せる力の「限界点」を「ニュートラル」に設定することでさらに力を出す、とか、痛みの発生する場所を意識のなかでずらしてゆき、ついには体の外に出す、とか、理詰めで暴走するのだが、こちらの場合でも、ページの上で行なわれているのは、かたちのない意識を、このうえなく明快に「絵にしてしまう」ことである。

 忘れ物を思い出そうとして自分の行動を巻き戻して考える、というのは誰にでも馴染みのある作業だろうけれども、あたまのなかのその回想が、第1巻5話では、現時点のムー夫のうしろに過去のムー夫が連なっていく図として絵にされている。それは、簡単すぎてどこか危険を覚えるくらいに簡単な絵である。
 人の意識を容赦なく絵にする。そう考えたとき、もっともすごいのは、やはり誰にでも感じた経験があるだろう「何かに意識を集中している自分のことを外側から見ている、もう一人の自分」を、“セカンド自分”として絵に描いた、というところに尽きる(第1巻33話~)。私がいまこの文章を書いているのは、一にも二にも、ムー夫のあたまの上にもうひとつあたまが浮かんでいる、身も蓋もない“セカンド自分”の表現があまりにすごい、と言いたかったからである。
 しかも“セカンド自分”はとっかかりで、この漫画はそれをさまざまに活用し、しまいには、ひとりの意識の量と濃度をめぐってさえ展開する。「それを絵にしようと思うのか」という驚きは、毎回4ページのなかで「それがこんな絵になるのか」という感心に変わり、「たしかにそれはこういう絵だ」という納得を連れてくる。もったいぶった深みが一切ない。そこがときどきおそろしい。

 こちらにも正直に付け加えると、“セカンド自分”の絵を目にして、この人なら、と私は思ったのである。この人なら、私が子供の頃からときおり感じていた、「学校の教室とか飲み会だとかといった、まわりがみんな自分の知っている人間であるなかで、たまたま自分がひとことも喋らないまましばらく時間がすぎたときとつぜん発生する、自分の意識だけがその場から浮き上がっているような、あの感じ」を、絵にしてくれるんじゃないだろうか。そう思って興奮した。

 以上、『ムーたち』のすごく単純な面白さは、言葉遊びも禅問答もナンセンスも、なんでもかんでも絵にしてしまう、それも極めてやさしい絵にしてしまい、あとには神秘も謎も一片たりとも残さない、というラディカルさのことだと思うのだが、そのような、漫画であるからには当然すぎる前提について言うためにこうもくどくど書いてくる必要が果たしてあったのかどうか。
 ともあれ、第2巻の巻末についた「解説」で、最終話、それまでの集大成のように、データを駆使する規理野くんと、いくつもの自分をぶん回す虚山親子が収められた一コマを讃える斎藤環に、私は100%同意する。おわり。

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