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2008/01/17

内田百閒『贋作吾輩は猫である』(1950)

贋作吾輩は猫である―内田百けん集成〈8〉   ちくま文庫

ちくま文庫(『内田百閒集成8』)、2003

 漱石『猫』の面白さはひたすらに文章の面白さであって、ページをめくっている自分とは明らかに次元の違うあたまの使い方で圧縮された日本語が、それでも日本語だからこちらにもちゃんと読み取れるし笑える、というところにほとんど感動さえする。
 なにしろ、話じたいはほんとにどうでもいいものなのである。語学教師と、その家に出入りする変人の言動を猫が観察する、という設定がすでに純金のどうでもよさを誇っているし、一冊の大半を占める苦沙弥先生と暇人たちのやりとりは、文章で会話を描く場合に可能なギャグの、およそ考えつく限りの技を端から実践しているように見えてくる。やはり感動する。終わり近くに現われる名高いエピソード、「寒月のヴァイオリン」など素晴らしすぎて涙が出そうだった。

 漱石に私淑する内田百閒の『贋作』が本家から借用したのは、猫が人間を観察するという設定だけで、百閒の文章が漱石の文章と別である以上、中身はぜんぜん別である。借りてきた猫がおとなしいのは当然だが、そればかりか、途中でほとんどいなくなる。で、別物ではあっても、百閒は百閒の間合いで会話を描出し、それがやっぱり面白い。漱石の即効性はなくても、じわじわくる。
《「推古天皇の御代の話なら、年代は知りませんけれどね、本多善光[よしみつ]が大阪へ来ましてね、阿弥陀池の傍を通ると」
「大阪だって」
「難波の堀江です。すると池の中に蓮が生えていて、蓮の葉に露がたまって、きらきら光っている」
「お天気がよかったんだね」
「どうだか知りませんが、池の傍を通り過ぎようとすると、よしみつ、よしみつ」
どうして、そんな妙な声をするのだ
「名前を呼ばれて、振り返って見れば、蓮の葉の露だと思ったのは、阿弥陀如来の小さなお姿です。蓮の葉に乗って、金色の光りを放たせ給う」
今の変な声は阿弥陀仏の声色なのか
「善光がその小さな阿弥陀如来を背中に背負って行って、信濃の国に安置しました。それが善光寺の始りですよ、先生」
 五沙弥が箸の先でお皿の縁を叩き出した。
「身はここに、
 心は信濃の善光寺、
 みちびき給え弥陀の浄土へなんまみだぶ、
 なんまみだぶ、なんまみだぶ」》pp186-7

 記号 「」 で示した突っ込みのテンポ、そのスルーされっぷり(突っ込んでる方が目上の人物である)が、この引用部分だけで十全に伝わるとは思えないけれども、もう書いてしまった。
 とはいえ、はじめて読む内田百閒としては、これよりも普通に『冥途』なんかがいいんじゃないかと、たいして詳しくないけど私は思う。


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(2002/12)
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