2007/12/13

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その78


[前回…]

 おととい、わりと興奮したままパンタグリュエルの口のなかについて書いていて、忘れていたのは、『第一之書』にもガルガンチュワの口のなかを描いた場面があったことだった。これ(→その37)。
 読んだ当時はけっこう無茶だと思ったからこそメモしたんだろうが、いまパンタグリュエルの口のなかを引き摺りまわされている目で見ると、あっちはほとんど「おとなしい」と言っていいくらいのものである。「おとなしい」というか、「狭い」。なにしろこちらの口のなかには町があり、黒死病の死骸運搬車まで走っていたのだし。

 で、このパンタグリュエルの口のなかは、私ひとりを興奮させるだけのものではむろんなく、たとえば、エーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』という本をのぞいてみると、ラブレーの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を、まさに『第二之書』のこの部分から論じていく章がある。
 私は通読していないんだけど、『ミメーシス』(1946)は、ヨーロッパ文学における“描写”の歴史を具体的な作品の文体分析で追いかけた大著ということになっており、どこが大著かといえば、ちくま学芸文庫版で上下巻のうち、第1章がホメロス『オデュッセイア』からはじまるために、16世紀中頃のラブレーは比較的あたらしいほうだから俎上にのぼるのは下巻になってから、というところにまず果てしない気持になる(全20章中の11章め。ラブレーのあとにシェイクスピアやセルバンテス。最終章でヴァージニア・ウルフに行きつく)。

「パンタグリュエルの口中の世界」と題されたその章で、アウエルバッハは、それこそパンタグリュエルの口中の世界を、(1)グロテスクな冗談、(2)ルネンサンス期の「発見」のテーマ、(3)口のなかの世界が「すべてわが国のごとし」、という3つのモチーフのからまり合う巨大なるつぼとして読んでいくのだが、たしかに様ざまな知見を開陳してこと細かく読み解いていくのに、論の運びそのものがこちらに与えるいちばんの印象は、“衒学的”というのでも“精緻”というのでもない。それよりは、何だろう、山のように教養のあるおっさんがものすごい勢いで喋っているというか、あるいは、恰幅のいい赤ら顔の紳士が特上の握り(12人前)を端から平らげていくみたいな感じを受けた。どんなだ。
《舞台平面やモチーフと同様に、文体も変転している。グロテスクなモチーフの枠にふさわしい、グロテスクで滑稽な、野卑な文体であり、しかもそのきわめて精力的な形式は力強い表現をきらびやかに伴っている。それと並行して、もしくはその中にないまぜられて事実の報告が現われ、哲学的な思考がきらめき、グロテスクな出来事のただなかに死者が車で家々から運びだされる、という生物学的なペストの恐怖が描かれる。この種の様式混合は、ラブレーが創作したものではない。ラブレーは、なるほどこの様式混合を彼の気質や目的にあわせて利用したが、しかしその由来するところは、矛盾したことに、中世末期の説教なのである。この説教において、様式混合の伝統は極端にまで高められたのである[…]。すなわち、これらの説教は野卑に行われた場合には民衆的となり、生物学的に行なわれた場合には写実的に、聖書的・比喩形象的・解釈的に行なわれた場合には学問的・教化的となる。》下巻 p22

 それはともかく、ここでメモしておきたいのは、パンタグリュエルの口内に入っていった語り手の「私」がはじめて人間(玉菜を育ている農夫)に遭遇するシーンに、アウエルバッハがひどくこだわっているところである。
 前回の分で引用したように、仰天した「私」が「君、そこで一体何をしているのだい?」と声をかけると、農夫はすっとぼけた調子で「玉菜を植えてますのさ。」と答えたのだった。
《これは、筆者自身がかつて経験した、ある少年の言葉を想い出させる。すなわちこの少年は、別の町に住んでいるおばあさんに彼の声を聞かせるために、生れてはじめて電話をかけ、「お前、どうしているかい?」とおばあさんに近況をたずねられると、「ぼく、電話しているよ」という誇らしげな、事実に即した返答をしたのである。が、この場合はすこし事情が異なっている。この百姓は、ただ単に素朴で愚かなのではなく、きわめてフランス的でもあり、とくにラブレー的な、いくらか陰険なユーモアを持っている。百姓は、この客人がおそらく彼も聞いたことのある別世界からやって来たことを感づいているのだ。》下巻 p17

 後半の指摘は注目すべきもので、とくに「陰険」というのはラブレーの大事なところだとずっと思っていただけにたいへん面白いのだが、それ以上に私がひっかかるのは、前半の少年のエピソードである。なにしろ彼の発話は、ここで『第二之書』と関係があるように持ち出されてきたのに、《が、この場合はすこし事情が異なっている。》としてすぐに引っ込められるのである。この少年は何なのか。どうしてここで出てきたのか。もしかして、アウエルバッハの息子だろうか。

 いろんなものをごた混ぜにしてたくましく広がっていくラブレーの物語に取っ組みあって、これを縦横に論じるアウエルバッハの文章は、こちらもたくましく分析を進めながら雪崩を起こすように展開し、読んでいる私に巨人vs巨人のエキシビジョンマッチを見ているような気分を与える。
 その流れのなかで「つい、書いてしまった」感を濃厚に残すこの少年のエピソードのせいもあり、なんだか『ミメーシス』は(少なくともこの章は)小説のようにも読める。未読の部分もちまちま読んでいきたいと思う次第だが、それはまた別の話だった。
 パンタグリュエルの口内に長々と滞在していた「私」は、ようやく外へ出る気になって、主君の髭を伝い、その前に立つ。
《パンタグリュエルは私を見つけて、こう訊ねられた。
 ――アルコフリバス、どこからきたかな?
 私は答えた。
 ――殿の喉の中からでござります。
 ――いつ頃からなかへはいって居ったな?(とパンタグリュエルは言った。)
 ――それは、(と私は答えた、)殿が塩漬[アルミロード]人を討伐にお出かけの時以来でござります。
 ――あれから六カ月以上にもなるなあ。》第32章 p235

 この豪快なスルーっぷりと、この期に及んで語り手の名前が明かされる呼吸には、いつものことながらめまいを覚える。そういわれてみればたしかに『第一之書』でも『第二之書』でも、題字にこの名前が記されていたことになるのだが(→その2その49、それにしたってこの場合、名前なんてどうでもいいじゃないか。
《――なるほど、だが、(とパンタグリュエルは言った、)どこで脱糞いたしたかな?
 ――殿、殿の喉のなかへでございます。(と私は言った。)》(同)



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