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2007/11/04

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その64


[前回…]

 何年かぶりに服用した風邪薬のせいで朦朧としている。
 なんだか前回はメルヴィル『白鯨』の話が長くなった。今日も別の作家の話から入る。

 こないだ読んだ『バーチウッド』(1973)が面白かったので、もう何年も積んだままにしていた、同じジョン・バンヴィルの『コペルニクス博士』(1976)を読んでみた。白水社から1992年の刊行。斎藤兆史訳。amazonに書影はなかったけど一応。

コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説) コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説)
ジョン バンヴィル (1992/01)
白水社

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 タイトル通り、主人公はコペルニクス本人で、天動説を引っくり返した天文学者の一生が、幼年から晩年までぎっちり語られる。こうまとめると、まるで正面切った評伝、あるいはリアリズムに徹した歴史小説のようだが、依って立つ土台がズレているために、極めて精巧で、変な小説になっている。
 ここで描かれるコペルニクスは、科学が世界の実態を明らかにするためのものではなく、統一あるひとつの世界観を作りあげるためのものとされていた時代にあって、ひとり、カギカッコの付かない真理を求める苦労性の男である。
《「君は我々の科学に無理な注文をしているのだよ。天文学は実際の宇宙ではなくて、ただ我々が見た通りの宇宙を記述するものなのだ。だから我々の観察を説明してくれる理論が正しい理論なのだよ。純粋な天文学に関する限り、プトレマイオスの理論は完全に、ほぼ完全に妥当なものだ。それによって現象は守られているからな。天文学に求められているのはそこまでであって、それ以上を求めるのは無理というものだ。[…]」》pp53-4

 医者として世を忍び、聖職者として異端尋問を恐れながら、解釈という壁を取り払ってあるがままの真理をつかもうとするコペルニクスには、その先にさらに高い壁が立ちはだかっていることまで見えてくる。
《彼はそれまで真理は語り得るものだと信じていた。今や彼は、語り得るものは言説のみであることを知った。彼の本は世界を描いたものではなく、本それ自体を描いたものであった。》p169

 いくらか軽はずみなのを自覚しつつ言えば、こうなるとコペルニクスは、まったく20世紀後半の悩める現代人になっている。そこが土台になっているから、16世紀の世間・風俗がどれだけ描き込まれても、一定のズレが維持される。このズレは、ひとりだけ地動説にたどり着いてしまった彼に対して周囲の人間が抱く違和感としても目に見えるようになっている。このような屈折によって『コペルニクス博士』は、16世紀が舞台の歴史小説というよりも、まぎれもない現代小説になる……って、1976年に出た小説なら現代小説に決まっている。当たり前のことを書いているなあ。
 ここにあらわれる「真理」と「科学」の関係は、「科学」が「文学」と置き換え可能になっていることに気づけば、ほとんど「もの」と「それを表す言葉」の関係を照らし出すものになる。というか、そうやって置き換えて読むように作中には案内板が何枚も立っていた。なにしろこの小説は、幼いコペルニクスがはじめて言葉を知る体験をしたところから始まっているのだ。
《あらゆるものに名前がついている。だが、あらゆる名前は名づけられたものなくしては意味を持たないのに、名づけられたもののほうは自分の名前などにかまわず、名前を必要とせず、ただそれ自体である。それから、実体のないものを意味する言葉があった。シナノキと木が、あの黒い踊り子を意味しているように。誰を一番愛しているかと母親は彼に聞いた。愛は踊らず、狂ったように揺れ動く指で窓を叩くことも、葉のついた腕を震わせることもない。それなのに母親が何物も意味しないその名を口にするとき、触知できぬ、しかし自分の中に確かに存在するあるものがそれに答えた。まるでそれが、自分の名が呼ばれるのを聞き、その声に答えるかのように。実に奇妙なことであった。》p9

 これはあくまでスタートなので、私が案内板だと思った箇所はミスリーディングで、小説の後半はもっと大変な転換まで進んでいたのかもしれないのだけれども、なにしろ濃密なので、私にはこれだけでも充分だった。

 で、『コペルニクス博士』がどのように「ガルガンチュワとパンタグリュエル」に関係してくるかというと、それはまた次回。たいしたことではないです。

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