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「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その63

[前回…]

 故国をめざす一向は、大海原へと乗り出すつもりで港までやってくる。海を渡らないと帰れないらしい。たしか『第一之書』では、パリ-故国の間は陸路で往復可能だったと思うが(→その16)気にしないことにする。
 で、その港町にいるときに、パリの一婦人からパンタグリュエル宛に書簡が届く。
《パンタグリュエルは、この宛名書きを読んだとき、大変驚き、書面を持参した使者に向い、使いを頼んだ婦人の名を訊ねながら、封を切った。すると、なかには何もしたためてなく、平たく切られただけの一粒の金剛石をあしらった黄金の指環が一つはいっているばかりだった。》第24章 p174

 どうやら、この物語の語り手がパリを舞台にしたパニュルジュの奇行に目を奪われていたあいだに、パンタグリュエルはパンタグリュエルでこの某婦人とよろしくやっていたらしい。読者にとっては事後報告。語り手にはもっとよく見ておいてほしいものである。あと主人公にも、物語から隠れないよう自覚を促したいところだ。もっとも、パニュルジュがパンタグリュエルの行動をうまく隠しおおせたと見れば、この家来が主君からいちばんあつい信任をもって遇されているのも納得がいく。考えすぎだけど。
 で、戸惑うパンタグリュエルから何も書かれていない書面を見せられたパニュルジュは、これを某婦人からの暗号書――何か書いてあるのに、特殊な仕掛けで文字が見えないようになっている――であると決めつけ、さまざまな方法を駆使して解読を試みる。
《[…]火で焙り、塩化アンモニヤ溶液を使って文字が書いてあるのではないかと調べてみた。》

このような、

「××してみた。△△の方法で書かれているかもしれないからである」

というパニュルジュのチャレンジの数かずを、私は

「△△の方法で書かれた暗号は、××することで読めるようになる」

みたいに逆さから読んで学習していくことになるのだが、
《胡桃油で紙の一部分を擦ってみたが、これは無花果の樹の灰汁でしたためられたのではないかと調べてみるためであった。》

《初産の女の子に乳を飲ませている女の乳を紙の一部分に擦りつけてみて、蟇蛙[がま]の血で書かれているのではないかと調べてみた。》

 こんなものになると、その解読法じたいがすでにして暗号のようである。蟇蛙の血って透明なのか。
 結論から言ってパニュルジュの探究心はすべて水泡に帰すのだけど、こういうやり方もあったことを引用しておきたい。
《蝙蝠の脂を塗って、竜涎香と名づける鯨の精液でしたためられたのではないかと調べてみた。》pp175-6

 竜涎香。註によれば、「(精液ではなく)実際は抹香鯨の体内に生ずる結石の一種」と訂正されていて、どっちにしろ、そんな貴重なものを使わないと読めない暗号通信の効率はいかばかりのものかと思いながらウィキペディアの記事(→これ)なんかに飛んだりしているわけだが、その記事にも書いてあるように、竜涎香についてはメルヴィル『白鯨』(1851)がさすがに詳しかったおぼえがある。蛇の道がヘビなら、鯨の道は白鯨である。

 それで『白鯨』を持ってきて捜してみたら、ぜんぶで140章近くあるうちの、91章と92章が竜涎香の話だった。これは「『白鯨』を読んでみる日記」ではないので前後の状況を端折って言うと、主人公たちの乗っている船が、洋上でフランスの捕鯨船と遭遇する。そちらからは風に乗ってひどい悪臭が漂ってくる。というのは、その船、死んで腐った鯨を2体も船腹に吊り下げていたのである。
《そんな巨塊がいかに不快な腐臭を放つかは容易に想像がつこうというもの。疫病に襲われて、生き残りの死者を埋める力さえないアッシリアの都市も、これほどの腐臭を放つことはなかったであろう。その激烈なる腐臭はまさに耐え難く、いかな強欲なものといえどもこれをわざわざ拾って船腹に繋ぐなどは全く考えられぬこと。》(千石英世訳)

 なんだかすごい書きっぷりだが、実際、フランス船の乗員はみんな鼻がもげそうになって気も狂わんばかりである。そこで主人公の船の1人がわざわざ助言に行って、そんな死体は捨てるよう勧め、その手助けまでする。なぜなら、そんな悪臭芬々たる死体のなかからこそ、世界でいちばんかぐわしい竜涎香が採れることを、百戦錬磨の船員たちは知っていたからだった。うまく騙してフランス人から死体を奪い取り、しかし当然悪臭には悩まされながら、竜涎香を探す作業がはじまる。
《鋭利な鯨鏝を手に、スタッブは鯨の脇鰭の後ろあたりに切り込みを入れる。穴を掘るように深くえぐって行く。海の上にありながら地下室でも作ろうとしているかのようだった。掘り進むうちに、ついに刃物の先が痩せた助骨に突き当たる。イングランドの厚いローム層の土を掘って発掘作業をしている連中が、ローマ時代の瓦や陶器類を掘り当てた姿に似ていた。[…]
「あったぞ、これだ」スタッブは穴の奥深くに何かを探り当てて驚喜の声を挙げた。「黄金[きん]だ! 黄金の入った袋だ!」
 握っていた鯨鏝を投げ出し、両手を穴の奥深くへ突っ込んだ。そして、両手一杯に、一塊の香りのいいウィンザー石鹸とも見まがうものを掬うようにして取り出したのだ。それは、年代ものと化して表面に斑点模様が浮き出た濃厚なチーズの塊のようでもあった。油を塗ったような艶やかな光沢を湛えた黄金と灰色の中間のような色、親指で押すと簡単に窪みができそうな肌合、そこから爽やかな香気が立ちのぼってくる。読者よ、これが竜涎香である。どこの薬問屋へ持って行っても、一オンス一黄金ギニーで買い入れてくれる貴重品だ。これが両手に六杯も採れただろうか、しかし手からこぼれて海に失われた部分がもっとあっただろう。残念だが仕方がない。[…]》

 あんまり文章が面白いので引用が長くなった。この文体のたくましさはいったい何なんだろう。
 全篇を通して女性キャラがほとんど皆無である『白鯨』は、鯨の体内にある物質の描写になると途端にエロくなることで有名なのだが(嘘だと思ったら読んでみればいい)、それはともかく、いま書き写していて思ったのは、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」と『白鯨』には、たしかに300年の開きがあるということだった。『白鯨』だって、それだけ読めば不均衡でぐちゃぐちゃで、つぎはぎだらけのくせにあちこち過剰な、どうしてこんなものが突如発生したのかわからないモンスターみたいな小説なのだが、それでも「ガルガンチュワとパンタグリュエル」に比べれば、はるかに整然とした、折り目正しい小説のように見えてくる。『白鯨』の語り手が続けて語るところによれば、竜涎香は高級な香料として、また防臭剤として、さまざまな用途に珍重されるというが、パニュルジュが勘ぐったような、暗号文書作成としての使い道については触れられていなかった。代わりに書いてあるのはこういうことだった。
《威厳あふるる淑女や紳士が、病んだ鯨の腸の汚辱のなかから掻き出されたこのものを身に帯びて喜々として戯れているとは誰に想像できたであろうか!》

《この竜涎香という不滅の香気があの破滅の汚辱の直腸に見出されるというのは、意味なきことであろうか。》

 『白鯨』からながながと引用だけして、ラブレーに戻りようがないまま今日のぶんは終わりにするしかないのだけれども、まあなんだ、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」には、どちらかといえば“竜涎香”より“病んだ鯨の腸の汚辱”や“破滅の汚辱の直腸”の方に近いことばかり書いてある。それなのにあっけらかんとした印象を残すのだから、まったく変な本なのだった。




『白鯨』は前にもいちど触れたことがある(→その8)。読むなら断然、講談社文芸文庫版が楽しい。

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