2007/10/21

ジョン・バンヴィル『バーチウッド』(1973)

バーチウッド (ハヤカワepi ブック・プラネット) (ハヤカワepi ブック・プラネット)

 佐藤亜紀・岡崎淳子訳、早川書房(2007)
《ひとはあるがままを覚えていると思い込んでいるが、実のところ未来まで持ち越せるのは、ありもしない過去を造り上げる断片でしかない。》p9

 このような、そこだけ取り出すとちょっとカッコいいけど小賢しく見えなくもない文言に、作中で相応の重みを与えて読者のからだに食い込ませるには、ちょっとどころではない作為と計算による細部の積み重ねが要される、というのを思い知らせてくれる小説だった。
 滑らかな記述が作為なら、作為の跡を残しておくのも作為だろう。この小説は依怙地なくらい作為の塊であることを隠そうともしない。「あんたやりすぎだよ」などとつぶやきながらコリコリした文章を一行ずつ読み進めていく過程のひとつひとつが楽しかった。こういうものをこそ直球と呼びたい。

 舞台は19世紀中頃のアイルランド。語り手は自分の屋敷をめぐる壮絶な歴史を書き記していく。ふたつの家系のあいだで繰り広げられた、文字通り骨肉の争い。家族は全員が常軌を逸している。失われた双子の妹を探して語り手が飛び込む先は、胡散臭さ満載のサーカス。妖しくも苛酷すぎる国。
 屋敷の歴史を通して、当然、語り手は自身の歴史を書き込んでいくのだが、最後のページまで堪能してから(訳者が“あとがき”で勧めているように)もういちど最初に戻ってみると、前に見ていたはずの景色は様相を一変させていて、こちらが仮留めしていた像はあえなくほどけていく。そこまでやってようやく、ずっと低音で響いていた、「あれやこれやの統一なんて無理だ」、という声に納得ができるのだった。作者の思う壺、と思いながらも、この箇所を引用する誘惑にはあらがいようもない。
《観客は騙されることを望み、私たちが紡ぎ出す夢の共犯になった。[…]それは魔法をかける者とかけられた者とが、脚光[フットライト]を挟んで金色に輝くボールをやり取りする、何の意味もない、ひとすじの煙にも等しいゲームであり、しかもなお――そう、しかもなお私たちは、彼らが用心深く営む日々の生活という、きつく張られた鋼の弦を弾いて、私たちが去ったあとも彼らの小奇麗な町を疼かせる暗い熱狂の音を鳴らしてやったのだ。》pp168-9

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