趣味は引用
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その57

[前回…]

 先週の話。今月の後半に、青山ブックセンターで「内田樹+柴田元幸」トークショーがあるというお知らせに気づく。3人分くらい席を予約しておいて、だれか誘おうかなあと思いながら電話してみると「もう満員なんです」。その時点で告知から2日。ああ、人気者め!人気者め!人気者め!
 だれか3人分くらい予約してないですか。

 パンタグリュエルはパニュルジュと行動をともにするようになる。
 といってもまずは馬鹿話、次も馬鹿話、と続くのだけれども、基本、すべてが下ネタなので、なんだか読んでるうちに体力が奪われ、逐一まとめる余力がない。あんまりあけっぴろげにやるよりも、いくらか内にこもった方が下ネタは先鋭化するのではないかと思うのだが(先鋭化させてどうする、というのは別問題)、パンタグリュエルもパニュルジュもそういう配慮とは無縁であって、むしろどれだけ配慮しないかを誇っているようでもある。かくして、虎に遭遇してびっくり仰天、ひっくり返った拍子に着物がすっかりめくれあがってしまった老婆を題材に、この世の終りのような下ネタが繰りひろげられたりするのだった。触れるものをみんな黄金にしたミダス王のように、第15章のあたりでパニュルジュの口からぽんぽん飛び出る見慣れない言葉は、巻末の訳註にあたると、ことごとく「男根」「女陰」の意味だと知れる。とんだミダス王である。
 ちなみにパニュルジュは「金欠病」に罹っている、とも紹介されており、訳註によれば
《単に「金がない」ことばかりでなく、治療費がかさむ梅毒を指すものか?》p297

 この《?》が私は好きだ。
 そんな下ネタのなかに、珍しい人物が顔を出す。第17章の最初である。
《或る日のこと、私はパニュルジュが何となくしょげかえり、黙りこくっているのを見て、これはてっきりお銭[あし]がなくなったのだなと思い、こう言った。[…]》p134

「私」が出てくるのは、巻頭「作者の序詞」と、第1章のあたま以来のことだと思う。すっかり忘れていたけどこの本は、パンタグリュエルの家来が書いた、ということになっているのだった。ここにも註がついているのでめくってみると、訳者もひとこと、
《思いがけない時に、作者が登場する。》p301

 とだけ書いて投げ出しているので笑った。それは見ればわかります。

 ところで、これはいついつの時代の話であるよ、ということをあらわすための、もっともてっとりばやい方法は、作中に固有名詞を導入することである。とくに同時代であることの強調としては、実在の人名や商品名が欠かせない。つまりは時代の刻印なので、ちょっと時が経つとそこから古くなっていくことにもなりかねず、だれか作家が「自分の小説で初めて“ドトール”と書くときは緊張した」といっているのを見たおぼえがある。
 考えてみたら、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」にもそういった固有名詞、すなわち時代のイコンが目白押しだった。たとえばいま、「私」が出てきた第17章で描かれるのは、この語り手とパニュルジュの2人が雑談しながらノートルダム大聖堂へ贖宥符(免罪符)を買いに行く話である。贖宥符。まさに時代を映す商品名と言えるだろう。というか、それが時代そのものだ。なんとなく、カトリック。
indulgentia

 なお、パニュルジュの真の目的は、何軒もの教会で供養金の受皿に寄付をすると見せかけてお金を掠め取ることだった。そして、自分は金が出ていくのも早いが入ってくるのも早い、と得意顔なのである。

 ふと思った。今日、「といってもまずは馬鹿話、次も馬鹿話、と続くのだけれども、基本、すべてが下ネタなので、」と書きはじめたが、これって「ガルガンチュワとパンタグリュエル」ほぼ全体のことである。

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