2007/09/30

「ニュータウン入口」(本公演 2007/09)

 9月23日の日曜日、宮沢章夫の遊園地再生事業団公演「ニュータウン入口 または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入をきめたかを見にいった。14時からの回。これまで2度あったプレビューに続く、本公演。場所は三軒茶屋のシアタートラム




      遠くから声がする。

女たち  イスメネ。イスメネ。イスメネ。
イスメネ  声だ……。俺を呼んでる……、もう、そんな時間なのか? もう店が開くのか? もうバイトの時間か? ……それにしても、この石はいったいなんだ?

 引用してみてはじめて、「イスメネ」という語はキーボードでひどく打ちにくいことがわかった。

 見たのは先週の日曜日だというのに、ぜんぜん感想がまとまらないので、まとまらないまま書いていく。たとえ演劇がまとまっていないとしても、感想がまとまらない理由にはならないと思うけれども、月曜がすぎ、火曜も水曜もすぎ、木曜になったあたりで、あの演劇は、私のあたまよりずっと大きいスケールでまとまっていたのじゃないか、という気持がようやくしてきたことでもあるし。第一印象が出てくるまでに、まる3日以上かかったことになる。いま部屋にある本のタイトルで、私にいちばんしっくりくるのは『スロー・ラーナー』(のろまな子)かもしれない。

 行方不明の長兄をさがしている次兄と弟のふたりと、ニュータウンに家を買おうとしている夫婦、そのニュータウンを拠点にするダンス普及協会の会員、むかし数かずの「発見」をした考古学者や、レンタルビデオ屋の女の子、さらには人語を解する鳩などなど、いろんな登場人物がいて、劇中の出来事のモチーフは、現実にあった事件から、私が知っているものも知らないものも含めていろんな映画や小説に広がり、土台にはギリシャ悲劇が横たわっていることが(土台なのに)あからさまに示されている。
 今回、きっちりマス目に区切られた舞台の上には、無骨な鉄柱のワクがあって、最初から最後まで門のようにそびえ立っている。ときおり、ワクの半分まで白い幕が下りると、そのうしろで演技している俳優の姿がカメラで撮られ、そこに投射される。カメラマンも自己紹介をして劇に参加する。

 長い長い舞台だった。というのは、上演時間がたしか2時間20分、という長さのことだけではなく、半年近く前から2回の準備公演を見て、一時期サイトでアップされていた脚本も印刷して目を通し、「ニュータウン入口」という作品が、まず宮沢章夫のなかで、それから舞台の上でかたちを変えていくのを私も横からずっと見ていたと(小声でなら)言ってもいいんじゃないかという実感があるからで、それを言うなら、かたちを変えていく以前、かたちになっていく様子さえ、ほぼリアルタイムで知ることができた。これは、宮沢章夫がまれに見る“なんでもかんでもウェブ日記に書く人”であることによる。まったくすごいことになっている。何かしらものをつくる人が、進行過程を実況中継するウェブ日記やブログなど、いまや珍しくないはずなんだけど、珍しくなくても、すごいものはすごいと思う。
 たとえば、鍵になる重要な登場人物のモデルがはっきりこの人の意識にのぼったのは、「富士日記2」のここらへんを見れば、今年の2月3日と5日あたりらしいとわかる。あのころ、日記を読みながら「この人の興味はどこへ行ってしまうのか」と面白がっていたのを憶えている。続く“2月後半”の分もあらためて読み直してみると、戯曲の芯はこの1ヶ月でできたんだろうなあと、いわゆる「今にして思えば」的な、何か神妙な気持にもなった。
(さらにさかのぼると、「ニュータウン入口」というタイトルがはじめて出てきたのは、おそらく去年の9月19日だと思われる。まだ、前の公演、「鵺/NUE」の稽古にも入っていないころだ。そしてもちろん、「富士日記2」にちらりとのぞいた雑多な断片の本体と、触れられてもいない大量の材料が投入されて「ニュータウン入口」になったわけで、1回めのプレビューの開演前、座席に置かれたパンフの人物表を見た私は、予想を裏切る役名の羅列に「別の舞台に来ちゃったみたいだ」とおかしくなったのだった)

 で、繰り返し、長い長い舞台だったと思う次第なのだけれども、それでいてこの「ニュータウン入口」は、完結していない。本公演をもって、いよいよ終わらなくなったという印象だった。
 こんな書き方をしても何のことだかわかるまいと思う一方、私にしても、登場人物たちがしようとしていること、台詞の意味その他、たくさんの要素をひとつにまとめて飲み下すという、2回のプレビューではできなかったことが、本公演を見ればようやくできるようになる、といった期待をまったくせずに劇場に向かっていたわけで、いまの私は、三軒茶屋につながる田園都市線のホームで電車を待っている自分にこう言ってあげたい。「大丈夫、ちゃんとわからなかったから」。すると改札を抜けていよいよ劇場に近づきつつある自分はきっと答えただろう。「わかるだなんて思ってない」。

 なんだか変な調子になってきたので、この「ニュータウン入口」は終わらない、というところからやり直す。

「リーディング公演」でいちばんおどろいたのは、劇中でいちど、俳優が舞台の奥、左側の壁にあった大きな扉を開けたときだった。会場の森下スタジオは道路に面していたから、外の光がそのまま入ってくる。そういうことしていいんだ、とびっくりしたのは、台本を手に持った俳優が演技して劇が進むという、おかしなことになっている舞台の上の状況が、しかも、これ以上なくあっさりと、劇場の外につながったと感じたからだった。そんなとらえ方は単純だと考え直そうにも、ちょうど晴れていたその日の光は、あっけらかんと明るかった。帰り、スタジオの横を通りながら、「さっきはここが内側から開いたんだな」と、当の扉をまじまじと見つめてしまった。
 次の「準備公演」では、たしか、扉のあった舞台奥は客席から見えなくなっていたが(スクリーンが張ってあったので)、劇の終わりに、その扉から俳優が外へ出ていってしまう様子がカメラで撮られて、スクリーンに映された。その日も外は晴れており、景色は明るく見えた。見えたも何も、そのあと、さっき俳優が立っていた道路を自分も歩いていくときの気分は、かなり妙なものだった。
 そして今回の本公演では、ラストシーンはどうなったか。そこまで書いてしまっていいとは思えないので書かないけれど、スクリーンに投影される映像は、劇場の外を飛び越えて、いや、何でもない。あらためて、この舞台のタイトルは「ニュータウン入口」というのだよなと感じ入った。どれも出口ではないのだ。

アンティゴネ  『永遠と一日』。
高村  永遠と?
アンティゴネ  だめですか。これだけでも借りちゃだめでしょうか。僕が観ます。
高村  返してきなさい。いますぐ、棚に。
アンティゴネ  でも、僕はこれが観たいんです。
高村  きみの意見なんか、どうだっていいよ。きみの観たい映画を借りに来たわけじゃないんだ。なんだ、え、それ、永遠と? 一日? わからないよ、それじゃ、言ってること、それ、おかしくないか? 永遠と一日? どういうことだ、それ?

 古代劇とニュータウンと少年Aとフォークダンスと●●●●●とその他もろもろが、いったいどういう回路でつなげられた結果として、いまひとつの舞台の上で繰り広げられているのか、私の理解をかるく越えて場面が積み重なっていくので、劇のあいだは追いかけながら落ち着かない気持になっていた。こうもわからないものが目の前でどんどん展開していくこの状況はなんなのだろうと思い、いまの自分はわからないものにわからないまま引きつけられている状態なんだろうか、と素に戻る瞬間も何度かあった。で、結局、わからないまま劇場を出た。

 わからなさにもいろいろある。「ニュータウン入口」のわからなさは、設定としての登場人物の出自も、台詞も、やろうとしていることも定まった意味をなさず、結果として、この演劇が何についての演劇なのかさっぱりわからない、といったわからなさではなかった。というか、そこまで意味不明なものだったら「わからない」とは言わない、普通。
 俳優が口にする言葉も、行動の目的も、何らかの意味があることはわかるが、それが難しすぎて理解できず、結果として、この演劇が何についての演劇なのかさっぱりわからない、といったわからなさでもなかった。そういう難解なものであれば、「わからない」ではなく「難しい」と感じると思う。
 ここのちがいは自分でも微妙なのだが、「ニュータウン入口」は「難しい」のではなかった。あれだけいろんな要素を詰め込んで、全体を筋の通るように説明することもしないのに、それでいて、この劇が何を問題にしてどういう答えを出そうとしているのか、それが難しくて読み取れない、というわけではなかった。むしろ反対に、この劇のテーマを、主人公格の登場人物が発する言葉や、あるいは戯曲と並行して書かれた著書の中からさがすような受け取り方をするならば、それはずいぶんわかりやすいとさえ思う。
 だから、“言いたいことはわかる気がするが、それがどうしてこんなかたちで表現されているのかがわからない”、この演劇のわからなさは、そういうわからなさだった。

 そして、こういうふうにわからないんだ、とわかったとたんに、変な言い方だが、「ニュータウン入口」は急に面白くなった。私の場合、その時点で木曜になっており、水曜までの4日間は、作品を受けとめかねて困っていた。いま、もうちょっと考えてみると、おそらく事情は逆なんだろうと思う。
 いったいどうしてこんなかたちになっているのかわからない、そんな方法で示されているために、実はそのおかげで言いたいことがわかる気がするのであって、「ニュータウン入口」は、あとから思い出すほど面白く思えてくるような仕組みでできている。それがつまり、初見では「まとまったひとつのもの」としてはぜったい飲み込めないようになっている、ということなのではないか。
 2回見たら、あるいは3回見たら「まとまったもの」として飲み込めるのかというと、おそらく、まとまっている/いないは関係なしに、そのまま飲み込んでしまう、ということが起きるのじゃないかと思う。それは、当たり前だ。
(こうやって書いてみると、そんな仕組みでできている作品は、小説でならいくつか経験があったじゃないかという気になってきた。『ペドロ・パラモ』とか)

 演劇を見るのは変な体験だ。自分の数メートル先で動いている若松武史という人の体と声は、細かい立ち居ふるまいであってもひとつひとつが異様だし、話題がアダルトビデオになるとがぜん生き生きとしてくる不可解な役を演じた山縣太一という人のふざけた挙動からも目が離せなかった(ぜんぜんちがった動きをするこの2人が、同じくらい圧倒的であるというのはどうにもおかしい)。そういった、じっとイスに座っている私の前で動き回っていた俳優のなまなましさが、とても簡単には片付けられないものとして私のなかに残り、それを思い出すにつけ、そびえ立つ鉄骨が象徴するものは――とか、劇中でカゴに入れて沈められるはずだった鳩が、ラストに流れる映像のなかですいすい池を泳いでいたのはつまり――、とか、そういった“意味”を簡単にまとめる邪魔をするのである。劇場を出ても、俳優ひとりひとりが私に向かって「いやー、そういう簡単なことかな?」と言ってきて離れない、みたいな。
 私はいくらか「気にしすぎ」なんだと思う。それはおそらく、演劇を見たことがほとんどないので、慣れていないというだけのことかも知れない。いずれにせよそんな私には、神話も現実の事件も、映画の形態模写も小説から引用した長台詞も、それぞれがそれぞれに、そういうものとして並んでいた、としか言いようがない。
 それでは、結局のところ、宮沢章夫は「ニュータウン入口」で何をやったことになるのか。
「結局のところ」「つまり」「まとめて言えば」といった言い方を回避して、それでも言いたいことを言う、しかも見た人にできるだけ強いひっかかりを残す言い方で言ってのける、そのための方法をさがしたんだと思う。それで、どんなテーマもメッセージも、人間のかたちをして舞台の上を動くことになった。

 どうだろう。ここまでの分を読み返してみると、私は私で、自分によくわからなかったものを無理して面白かったと思えるようなとらえ方を、一生懸命さがしているように読めなくもない、のだろうか。そうじゃないんだよな。たとえそうだったとしても、「ニュータウン入口」は面白くなった。“いかにして私は困惑するのをやめ「ニュータウン入口」を面白いと言えるようになったか”、とか書いているうちに日曜の夜になってしまった。
 見てからまる1週間。公演は今日(9月30日)で終わりだ。いずれNHKで放映されるそうなので、劇場で見るのとテレビで見るのと、「わからなさ」はちがうのか考えてみたい。

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