趣味は引用
宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(2007)
東京大学「ノイズ文化論」講義
白夜書房


『80年代地下文化論』に引き続き、東大駒場で行なわれた講義をまとめた本で、今度のテーマは「ノイズ」だった。

 さまざまな表現の分野で“異端”とされるものを「ノイズ」としてくくり、そのインパクトや可能性を考える、という本ならほかにもありそうな気がするが、宮沢章夫の視野はもっと大きくて、この講義では、おしなべて「きれい」「健康」の方向に進んでいくいまの世の中から「見たくない」「不快である」として排除されるものたちも、やはり「ノイズ」としておなじ線でつなぐのである。
 するとホームレスもピンクチラシもノイズということになり、一方、逆にノイズを極端に排除した、このうえなく清潔な空間として“ニュータウン”が浮かび上がる。
 もちろん宮沢章夫はニュータウンを否定したりしないが、何かが排除されているのなら、そこには、「見たくない」「不快である」ものを排除している何ものかがいるはずで、まちがいなく現実に存在している事物を「あるべきでない」と遠ざける側の姿こそよく見えない。
 だから(たぶん)宮沢章夫は、排除されるものの方を拾いあげるのに傾注する。その際に援用されるのが、音楽におけるノイズミュージックの思想だったりする。
 回収する先が「ノイズ」という、枠であって枠でないようなくくりなので、話はどんどん広がっていく。俎上にあがるのは、80年代のおたくだったり、隠れキリシタンの町だったり、ある種の映画や、写真、演劇、政治活動だったりと、多岐にわたる。
 実際にページをめくって読んでいたときよりも、いま、こう書いてきて思った。この本、無茶苦茶だ。とっちらかっている。しかし、枠から排除されたものがノイズなんだから、混沌は当然のことにも見えてくる。率直に言って、とても面白い。「後醍醐天皇」と「高円寺ニート組合」を結びつける本はなかなかないと思う。
 そして、「異質」「不合理」なものが排除される、という図式は、「少数であるがゆえに排除される」マイノリティの問題に行きつく。たとえば障碍者。在日外国人。被差別部落。性的な少数者。
《「排除」っていうのは、「それをないものとして考える」ということでしょ。「差別」は逆に、「それをあるものとして排除する」になる。どちらにしても、やっぱり、「『多様性』というものを無化しようとする」ってことです。》pp276-7

 だれだって、「少数者を排除してよいか」「多様性は悪いことか」と訊かれたら「ノー」と答えるだろう。でも、これが「自分の家の隣に○○○がいたら/あったら」(「○○○」には任意の「不快なもの」を入れる)になると、具体的になった分だけ、話はむずかしくなる。そして現実は、いつも具体的な問題の塊である。
 ノイズという鍵言葉であちこちに線を引きながら、宮沢章夫は相当微妙な話題にも踏み込んでいくのであり、それでも、この人の語り口を面白がって読んでいられるのは、なによりも、「マイノリティを擁護する」と言うのとおなじ立ち位置から自分の寝癖を擁護したりする、この人自身が面白がってこの講義を進めている姿がたえず前面に出ているからだと思う。これは逆説ではなくそう思う。
 現代の「ノイズ」として、アルバイトやフリーターなどの非正規雇用者を取りあげるくだりでとくに焦点化されるのは、自身の関わる演劇活動と密接につながるこういう部分だった。
《周囲にいる俳優になろうとしている者――劇作家や演出家もそうですが、ふだんアルバイトで生活しているものがほとんどです。この構造をどう考えたらいいか、ってことです。
 考えはじめると、いま舞台をやっていることの意味がよくわからなくなる。「俳優として成功したいという欲望」がある。それをうまく利用しているからこそ、小劇場演劇はかろうじて成立しているのではないか。という疑問が生まれないではない。
[…]「簡単に手に入れられる労働力を、いかにそういう欲望に絡めて奪い取るか」という「おぞましい資本の制度」――つまりそれが「〈クリエイティヴ〉というイデオロギー」ですが、演劇はそのことに荷担していないかという疑問にもなる。》

 で、どうやってこの状況の裏をかくべきかという、この直後がやはり真骨頂だと思う。
《「裏をかこうとする試み」のために、いまやっておくべきことはなにか、もっと考える必要があるでしょう。それはたとえば……ひどく乱暴な言い方をするなら、「俳優として成功しない」……あるいは「俳優として失敗する」(笑)》p309

 ゲストとして教室に呼んだ、まったく重なるところのない岡田斗司夫から話を聞く回とか、ほかにも引用したい箇所はたくさんあり、随所で言及されるかずかずの本にも手を出したくなった。
 そして、「マイノリティ」「多様性」という言葉から自動的に思い出されるのは、(またしても)トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』(1966)だった。『ノイズ文化論』のなかではいちど名前が触れられるだけだが(221ページ)、この作家も、いつも「選ばれたもの/打ち捨てられたもの」の後者に入れ込んだ作品を書いてきた、ということになっており、まちがいなくノイズ擁護の人である。
 60年代のアメリカ西海岸を舞台にする『競売ナンバー49の叫び』で、平凡な主婦だったはずの主人公がひょんなことから「発見」するのは、社会が整備されていく過程で外へ排除されたものたちをつなぐネットワークだった。
 正確には、主人公は「ネットワークを発見した」のではなく、「そんなネットワークがありうるという可能性を発見した」に留まるのだけど、結局のところ彼女の幻視するビジョンがすべてを(彼女自身をも含めたすべてを)もっていくようにこの小説は書かれており、あとはもう引用する。ながながと引用する。
《[…]ここには数知れぬ市民がみずからの意志で米国郵便を使って通信しないことを選択しているからである。これは憲法違反の、国家に対する反逆の行為ではない。挑戦でもないだろう。計画的な後退である。アメリカという共和国の生活からの、その機構からの後退である。憎しみから、彼らの投票権に無関心であることから、法の抜け穴を利用することから、あるいは単なる無知から、彼らに与えられていないものがほかにどれほどあろうとも、この後退だけは彼らじしんのもの、公にされることのない、私的なものである。彼らが真空の中へ後退してしまっているなどということはあり得ないのだから(あり得るのだろうか?)、別個の、沈黙の、思いも寄らない世界が存在しないはずはない。》p154

《じっさい、あなたはLSDやそのほかのインドール・アルカロイド類の助けも借りずにさまよいこんだ――秘密の豊かさ、隠れた濃さをもつ夢の世界に――未知数のアメリカ人が、自分の嘘や決まり文句の復唱や精神的貧困の不毛な露呈などは公的な政府郵便配達組織にまかせて、真のコミュニケーションをおこなう連絡網のなかに――もしかすると、出口のなさ、人生に対する意外性の欠如(これがあなたの知っているアメリカ人ことごとくの頭を苦しめているのよ、あなただってそうなのよ)に真に代るものの中に。》p213

《彼女はいま思い出す――古いプルマン式一等客車が何台か、資金が底をついたか、客が消えたかして放り出され、緑の農地の平たい中にあって、洗濯物が干され、煙が継ぎ煙突からのろのろ立ちあがっていたのを。あの客車に無断で住んでいた連中も、トライステロを通して、ほかのひとたちと連絡を取り合い、三百年にわたるトライステロ一族の廃嫡状態を押し進める一助となっていたのか?[…]ほかの、固定した貨車のようすを思い出す――子どもたちが床板の上に座って、まるまる肥えて楽しそうに、母親の小型ラジオから流れてくる曲に合わせて歌っていた。また、ほかの無断の住人たちのこと――あらゆるハイウェイに沿ってほほえみかけている広告板の背後に帆布を張って片掛け小屋を作ったり、自動車廃棄場の壊れたプリマスなんかの何もかも剥ぎ取られた車体の中に寝ていたり、大胆に、電柱の上に架線工夫のテントを張って芋虫のように夜を過ごし、蜘蛛の巣のような電話線のあいだに揺られ、コミュニケーションの銅製索具、コミュニケーションの奇跡そのものの中に暮らし、夜もすがら電話線を何マイルとなく点滅して走る沈黙の電圧が何千という耳に聞こえぬメッセージとなっているのにわずらわされもしない。エディパは浮浪者に耳傾けたことを思い出す――アメリカ人たちがアメリカの国語をしゃべっていたのだ、注意深く、学者のように、まるでどこか目に見えない場所、にもかかわらず彼女の住む陽気な国とつながっているところから追放されて来ているみたいにしゃべっていた。また、夜の道路を歩いているひとびと、こちらの車のヘッドライトにグーッと浮きあがりサーッと消えて、顔をあげることもせず、どの町からも遠いところで、ほんとうに目的地があるとは思えないようなひとたち。それから声たち、あの死んだ男のまえに、またあとに、もっとも暗く、もっとも進行の遅い時間帯に無作為に電話した声たち、ダイヤル数字の一千万もの組み合わせの中を休むことなく探し、あの魔法の〈他者〉を見つけようとする――〈他者〉は継電器のうなり、侮蔑、汚辱、幻想、愛などの単調な連禱中から立ち現れるというのだ。この連禱の狂暴に繰り返されているうちに、いつしか生じるのが、名づけることのできない行為、認識、〈御言葉〉の引き金。》pp224-6

 この小説の舞台が、架空のサン・ナルシソ市という、どこにでもありそうな場所として設定されていたのは、主人公の「発見」をアメリカ全土に拡大適用できるものとするためだった。サン・ナルシソ市は、ピンチョンのニュータウンだったのだな。

 あと最後に、ふたつ。
 まず、『ノイズ文化論』のなかで紹介されていた、YouTubeの動画。警察に囲まれながら3人でデモをする様子を記録したもの(→WE ARE THE THREE (ONLY!))。
 「人は、どんな理由でも怒られることができるものだ」と思った。
 それと、宮沢章夫のサイト「富士日記2」から、7月11日の記述。
白夜書房の企画会議のとき、この「ノイズ文化論」について議題に上げられたという。「いったいノイズってなんだ?」という話になったらしい。そこで、おそらくE君が説明したんだと思うけれど、それを聞いて、白夜の人たちは、「ああ、俺たちのことか」と納得したという。なんだかいい話である。》
コメント
この記事へのコメント
お読みいただきありがとうございます。
最後のは宮沢さんの作ったネタです、たぶん(笑)。
2007/08/10(金) 00:00:18 | URL | 白夜書房のE #kavz3rt6[ 編集]
ありがとうございます
二重に笑えるようになりました。
そうですか、ネタでしたか。

第3弾を楽しみにしています。
2007/08/10(金) 07:34:14 | URL | doodling #OtUrN.LY[ 編集]
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