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《キュウリ、あんたもおなじように感じますか》
 いとうせいこうのブログというものがあり、そこではじめて川上未映子という人を知った。この記事。去年の冬か。
 件のフリーペーパー「WB」を置いている本屋は近所にあったので、さっそくその号(vol.07)をもらって来て「感じる専門家 採用試験」を読んでみたら、たしかに“なんだか面白い”。

 自分を〈主婦〉と規定する女性による、「存在」と「子を産むこと」についてのいきなりな独白ではじまるのだが、どうして自分がキュウリではなくキュウリは自分でないのかを真剣に考え詰めるほどテンションが高まっているので、語りの声はぜんぜん狭いところにまとまっていかず、痛くもならず(←重要)、変に元気なまま続いていく。わーっとした勢いが繊細に作られている、風通しのいい世界。思弁、というか言葉の暴走、ただし乗りものは自転車、みたいな。
 でもそれだけで終わったら、「それだけか」ということにもなるのだが、「感じる専門家」にはちゃんと、後半の逆襲があった。
 自称〈主婦〉は夕方のスーパーで〈妊婦〉に遭遇し、直接疑問をぶつけるのだけれども、〈妊婦〉からの返答も、〈主婦〉と同じ勢いで繰り出されてくるのである。
 思い込みによる独白が、作中でしっかり相対化されている、と言うんでもない気がした。どちらの喋りも過剰に観念的であり、だから出どころはたしかに一緒だと納得されるのに、それが欠点になっていない印象。こんな話(そもそもこれは話なのか)を書いてしまう人がいる、というのがなんだかうれしかった。

 で、この春、「早稲田文学」0号(復刊準備号)に川上未映子の新作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」が載った。ほかの執筆者もすごいので買いにいった。
(「WB」を置いていた本屋でも「早稲田文学」は取り扱っておらず、結局、馬場の芳林堂まで行った。さすがに平積みになっていた。ほかの取扱店はこちら

 いよかんもデコポンも柑橘類という点では同じ、とするような大雑把な見方をすれば、「わたくし率 イン 歯ー、または世界」も、「感じる専門家 採用試験」と同じ構成になっている。わーっと独白をしている女性がいる。後半に逆襲がある。
「WB」(vol.07)とはちがって「早稲田文学」(0号)はまだ買えるはずだから、こちらの説明は省くが、独白に挟み込まれる日記(まだ生まれてこない自分の息子に宛てて書かれた日記)と、某有名小説の書き出しについての考察がたいそう面白かった。読点のテンポが気持いい。

 あとは引用。本人のサイトはこちら(→「川上未映子の純粋悲性批判」)。
「感じる専門家 採用試験」より
《主婦 […]わたしの子どもがほしいのです・たいがい人はそう云いますがあなたが生むのは他人です・わたしの・なんて・それは奇妙な思い上がりであなたはとんでもなく怖い・たいそれたことをしようとしているとそんな恐怖はないですか[…]あなたが生むのはなんですか・あなたが欲しいのはなんですか・それは正しいことですか・あなたの生むのはなんですか・〈どうして?〉と問い続けた精神が〈どうして?〉と問い出すであろう精神を・どうして生むことが出来るでしょう・どうして・どうして・どうして・どうして[…]あなたは何を生むのです・あなたは何を生むのです・子どものつもりであなたは世界を・あなたは世界をつくるのです・一度有ってしまえば二度とはなかったことには出来ない世界を・あなたは作ってしまうのですね・私はとても恐ろしい・私はすこぶる恐ろしい・無いところに有るを生む・私はとても恐ろしい・あなたが撫でてるその腹の・下には宇宙があるのです・あなたが撫でてるその腹の下には世界があるのです・世界は生まれたいとも云ってません[…]》

《妊婦 いややわなんなの・面倒臭い・この人何をゆうてるの・ゆうてる意味がわからへん・頭おかしいとちやうのん[…]そら生まれてくるのは人間やから・そういう意味では他人やけども・他人にも種類はあるでしょう・なんで・そんな・極端なん・[…]世界を生むやら・なかったことには出来ませんやら・あなたはなんでそんな上から目線でものが云えます・あたしは少々びっくりします・もしも世界があるとして・あるなら世界はひとつやし・それはあたしの世界です・あたしが責任持てるのは・あたしの世界ただいっこ・そしてあなたもあたしの世界を構成している単にひとつの要素でしかないように・生まれて来る来る子どもかて・あたしの世界に含まれますから・世界は増えたり減ったりしません・世界はいつもひとつです・何がそんなに意味めくの[…]》


「わたくし率 イン 歯ー、または世界」より
《お母さんは、中学生のときに、図書館で、青木と初めて喋りました。青木は、雪国、という昔の日本の小説の、〈国境の長いトンネルを抜けると雪国であった〉、という書き出しをお母さんに見せて、この文章の主語はなんだと思いますかと聞いたのです。これは、とても素敵な文章で、この文章だけは他の国の他の言葉にうまく訳せないのだと、青木は笑いながらいいました。この文章の主語は、トンネルをくぐってゆく列車でも主人公の島村という男でも、ないよ。青木はそう云いました。その話を聞いてから、お母さんはなんだかよくわからない、不思議というような気分になって、でもなにか、そこには、お母さんが知りたい秘密のようなものが、いつでもあるような気がしているのです。今でもずっとしているのです。ねえ、おまえの主語はなんですか? お母さんの主語は、こうして手紙を書いているたった今は、お母さん、でいられるのです。お母さん。お母さん。とても素敵。このたった今ならお母さんはお母さん以外ではないのだもの。
 今こうして、おまえに話しかけるというか、手紙を書こうとするとき、主語の秘密を思い出すのですよ、思い出す、そう、考えるのではなくて、思い出しているのです。》

 それでいま知りたいのは、この人の書くものを女の人はどう読むのか、ということだが、女の人を“女の人”とひとまとめにする大雑把さこそがいろんな悲劇喜劇のもとじゃないかという気がする。それは“柑橘類”という括りさえデリケートに見せるくらい無神経な真似のはずで、ええと、しかし言いたいのはそんなことではなくて。

 こういうものもあるらしい(→セット販売)。
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