2005/06/13

T.R. ピアソン『甘美なる来世へ』(1986)

甘美なる来世へ
柴田元幸訳、みすず書房(2003)


 舞台はアメリカ南部に設定された架空の町。
《たまたま十八日金曜から二十一日月曜までは勤務日であったため二十二日火曜は前日までの激務の疲れをとるべく休養が必要であるとブリッジャー氏は考えたがニーリーの町における消防士の任務とは食べて卓球に興じて食べてカナスタに興じて食べてテレビを見て食べてから再度腹をすかせて二階の宿舎で眠りやがてまたポールを滑り降りることであった。》

 書けることはぜんぶ書いてみようとでもいうのか、話は脱線を続け、誠実な語り口でバカバカしいディティールに踏み込んでいく。しかし読み進めながらやがて納得することになるのは、このうねうね続くひねくれまくった文体が、田舎町をページの上に描き出すうえでたいへん適切なやり方だということだった。

 人間関係だけは嫌になるほど濃密で、行き場がないくせにすかすかの、充足しながらすべてが足りない土地に生きる感覚は、自分には非常にくっきり思い当たる。書きようによってはどんなに退屈にもなるものを、アクロバティックにして自然な手法を見つけて「笑えるだけじゃないんだけど、結局は笑っていればいい」作品にした力量にはつくづく驚いた。言葉を集め、書くことによって書かれる対象をつくりあげるという、文章表現一般のもつ不思議にいつものことながらめまいがする。ここには確かに田舎の町がある。
《さて周囲の隣人たちはみなそれぞれレースのカーテンの向こうからアスキュー夫人とブリッジャー氏が屋敷の表の庭に立って何を議論しているかはわからないがとにかく何か議論しているのを見守っていたものの彼らのなかの誰一人としてその議論が痔に関連したものであるなどとは夢想だにせぬままおのおの首をひねり想像を逞しくしていくうち一人残らず切ないほどの好奇心でもってほぼ全面的に胸を焦がす状態に行きついていた。》

 かたちのない語り手が「私たち」という人称を使うのには何の説明もなく、実際、要らない。町ぜんたいが語るこの小説の空気は、ラスト近くである人物の口から発せられる(誰の口から出たところで何の変わりもない)、
《「唾吐かせてあいつにかなう奴見たことないね」》

というものすごいセリフに集約されていると思う。
 こんな文体を舞台に、比較的普通の調子で進む後半の展開は、どういうつもりだと言いたくなるほど切ないのだった。

 ○ ○ ○

 さてところで、ピアソンの生真面目饒舌文体がとりわけすさまじい効果をあげるのには二種類の場合があり――というような視点の合わせ方はたぶん本末転倒で、というのも、大きな事件も日常の些事も、眼前の出来事も過去の思い出も、すべてをひとしく脱線しまくる無駄だらけの文体で通すがために、逆に無駄な文章はひとつもなくなっているという詐欺みたいな達成のなされてしまうさまがこの小説いちばんの読みどころだと思うからで、だから効果をあげるといえば、それこそ老女たちがサラダドレッシングにおける胡麻の意義について繰りひろげる他愛なくとめどもない井戸端会議を過剰な的確さでつくりあげたシーンなどでこそ、この文体は効果をあげていると言えるのかもしれないけれども、それでも実直に「迫力のある場面」を二種類あげるとすれば、まずひとつめは暴力の振るわれる瞬間とその結果をコマ送りで描いたようなシーンで、それはなんだか当然な気がした。
《そもそも見る前からほんのちょっと痛いかなという気はしていたところへ現にそれを見てしまったいま鋭い痛みと焼けるような熱さとすさまじい苦しさがどっと一挙に襲ってきて、指を持ち上げて傷口に触れまた離してみると指先もぐっしょり血まみれになっており氏はあんぐり口を開けてそれを眺めた。それから氏はくずれおれていった――沼にはまった人間のように床板に向かってくずれおれていき当初はくずれおれていくだけに甘んじて自分の背がずるずる低くなっていくのを傍観しているばかりであったがやがてやっぱりくずれおれていくだけに安んじてはおれぬと思いあたり[…]

 そしてもうひとつが、《衣服が破られ丸められ部屋中に投げ散らかされ情熱に駆られるなか[…]二人は共にのたうち回り腰をくねらせソファから硬い床に落ちた》りしながら進行する場面になるのもやはり当然のことなのかもしれず、これ以上の引用は控えるから詳細は自分で確かめていただきたい。すごいことになっています。

 ところで、訳者あとがきで柴田氏は、ほかのピアソン作品の紹介もしてくれている。Polar (『極地』)という長篇では、「ケーブルTVのポルノチャンネルを朝から晩まで見ている男に、スコット大佐とともに南極に達したのち行方不明になった人物の霊が乗り移る」らしい。

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