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2007/07/03

「ニュータウン入口」(プレビュー[2]準備公演 2007/07)

 7月1日の日曜日、宮沢章夫の遊園地再生事業団公演「ニュータウン入口」を見に行った。4月のリーディング公演に続く、2回目の準備公演。会場は前回と同じ森下スタジオ

 今度のはリーディングではないので、役者は台本を持たずに演技する。なら普通の演劇に近いものになるんだろうか、てか、おれが見に行こうとしているのはまぎれもない演劇じゃないかと思いつつ地下鉄の駅から会場まで歩いていったのは、リーディング公演の“台本を持った役者が、演技をしている”という状況が、それ自体でつくづく面白かったからで、あれもまた見てみたい。

 しかしながら、入場してみると、舞台には白い幕が下りている。役者はその前で演技するのかと思っていたら、いや、実際するのだがそれだけではなくて、役者は白幕の前とうしろを行ったり来たりする。で、うしろで撮影しているらしいビデオ映像が、生中継で白幕に映される。あるいは、幕のうしろから光を当てて、役者の体の影だけ浮かび上がらせたりもする。白幕の前には生身の体、白幕のうしろ(というか、幕の上)には、映像になった体。ときには片方だけ、ときには両者を組み合わせて、劇は進行していく。

 劇の台本自体は書き直す余裕がなかったそうで(→ここで読める)、たしかに台詞はあまり変わっていないのだけど、形態がこうもちがうとぜんぜん気が抜けない。どうやら私は、演劇のことをよく知らないなりに、生身の役者が見れてこその演劇、と考えていたようなのだが、いま目の前で行なわれているこれは、舞台の上でも何種類かの体を表現する実験ということなんだろうと思い直して見た。
 録画ではない生中継とはいえ(それは見ていればわかる)映像は距離があるし、会場は真っ暗ではないので映画のようにはっきり白幕に映っているわけでもない。あと、声も、発している役者を見せずにスピーカーから流す部分もあって、ぜんたいに“役者が遠くなる”工夫にばかり気が留まった。それが役者と客(私)を引き離す方向にはたらいている気がずっとしていたのだが、最後のシーンに反転があって、生身と映像の両方が一気にこちらに近づいてくる感覚があった。あ、この瞬間のためだったか、と私は驚いたが、たぶん、そんな単純なものじゃないだろうとも思っている。工夫って、ひとつの目的のためになされているわけじゃないだろうから。
 いや、まて。どうだろう。さっき、“役者が遠くなる”工夫にばかり気が留まった、と書いた自分の感想が、いまひとつ信じられない。だいたい、全篇通して、幕の前に出て来た役者の存在感は、「そりゃまあ、実際、そこにいるんだから」という以上に大きくなっていた。役者の生身は、同じ空間で椅子に座っている私の生身より、なんか、生っぽかったのである。演技してるのに。演技してるから? こうやって、ものわかりのよくない私はますます途方に暮れるのだった。劇の内容にたどり着かない。

即物的な感想:
(1)人にはそれぞれ弱点がある。いい年をした大人が、何人かで、同じ言葉を声を揃えて発する、という状況に私はたいへん弱いのがわかった。心が騒ぐ、というか、ほとんど動揺する。劇中の人物が劇中の人物に向けた台詞でこれなんだから、実生活でそんなことをされたら、なんて想像するだけでもおそろしい。

(2)“脈絡なく現れる肩車(しかも3組)”と、“自販機から出てくる人間”というのはなかなか忘れないと思う。どちらも笑えて、見てる最中はなんともなかったのに、いま思い出してみるとなにか気味が悪い。

(3)ニュータウンの下にさまざまな出来事が発見される(しかもそれが捏造である可能性もはっきり描かれる)のと同じように、台本にはいろんな引用が重ねられているのだけれども、「大江健三郎の文章は、朗読されるとすごく耳に気持がいい」ということがあらためてよくわかった。いやほんと、大江の文が読みにくいという人は、声に出してみるといいと思う(私は以前、電話口で大江の小説を2ページ朗読して聞かせるという真似をして相手から嫌がられたことがある)。

 前回、今回と2度の準備公演を経て、「本公演」は9月。

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