趣味は引用
2人のパン屋

「柴田元幸」「食べ物」の連想で、レイモンド・カーヴァーのパン屋を思い出した。この人の有名な短篇、「ささやかだけれど、役に立つこと」に出てくる、パン屋の男。思い出したのは、パン屋というか、パンだけど。

 もちろん、カーヴァーの全作品は村上春樹の個人訳として流通しており、ほかのバージョンはたぶんない。でも柴田元幸も、自分の本(『アメリカ文学のレッスン』)のなかで、その短篇の該当箇所を訳していた。ちょうどペーパーバックも手もとにあるので、原文→柴田訳→村上訳の順に並べてみる。

 いちおう説明しておくと、まだ若い夫婦が、いろんなごたごたのあとで、深夜、パン屋を訪れる。何十年もパンを焼き続けてきた年配のパン屋は、その夜もひとり、翌日店に出すパンを焼いていた。それからまたちょっと話が動いた、そのあとの場面である。

 原文:
《He served them warm cinnamon rolls just out of the oven, the icing still runny. He put butter on the table and knives to spread the butter. Then the baker sat down at the table with them. He waited. He waited until they each took a roll from the platter and began to eat. "It's good to eat something," he said, watching them. "There's more. Eat up. Eat all you want. There's all the rolls in the world in here."
 They ate rolls and drank coffee. Ann was suddenly hungry, and the rolls were warm and sweet. She ate three of them, which pleased the baker. Then he began to talk. They listened carefully.[…]
 "Smell this," the baker said, breaking open a dark loaf. "It's a heavy bread, but rich." They smelled it, then he had them taste it. It had the taste of molasses and coarse grains. They listened to him. They ate what they could. They swallowed the dark bread. It was like daylight under the fluorescent trays of light. They talked on into the early morning.[…]》
Raymond Carver"A Small, Good Things"(Cathedral 所収)

 柴田訳:
《オーブンから出したての、アイシングがまだ固まっていない温かいシナモン・ロールを彼は二人に差し出した。そしてテーブルの上にバターと、バターを塗るナイフを置いた。それからパン屋は、二人と一緒にテーブルに座った。彼は待った。二人がそれぞれ皿からロールパンを手にとり、食べはじめるまで待った。「何か食べるのはいいことです」と彼は二人を見ながら言った。「まだまだあります。どんどん食べてください。好きなだけお食べなさい。ロールパンならここにはいくらでもあるんです」
 二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。アンは急に空腹を感じ、ロールパンは温かくて甘かった。彼女はロールパンを三つ食べてパン屋を喜ばせた。それからパン屋は話し出した。二人はじっくり聞いた。[…]
 「こいつの匂いを嗅いでごらんなさい」とパン屋は、黒っぽい食パンを割りながら言った。「重たいパンですが、味はいいですよ」。二人は匂いを嗅いでみて、それからパン屋に言われるまま味見してみた。糖蜜と、荒挽きの穀物の味がした。二人は彼の話に耳を傾けた。二人はできるだけたくさん食べた。黒っぽいパンを飲み込んだ。蛍光灯が並ぶ下、店のなかは昼間のように明るかった。彼らは早朝まで話しつづけた。[…]》

 村上訳:
《彼はオーヴンから出したばかりの、まだ砂糖が固まっていない温かいシナモン・ロールを出した。彼はバターとバター・ナイフをテーブルの上に置いた。パン屋は二人と一緒にテーブルについた。彼は待った。彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。好きなだけ食べてください。世界じゅうのロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
 二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。アンは突然空腹を感じた。ロールパンは温かく、甘かった。彼女は三個食べた。パン屋はそれを見て喜んだ。それから彼は話し始めた。彼らは注意深く耳を傾けた。[…]
「匂いをかいでみて下さい」とダーク・ローフを二つに割りながらパン屋は言った。「こいつはがっしりしてるが、リッチなパンです」二人はそのパンの匂いをかぎ、パン屋にすすめられて、一くち食べてみた。糖蜜とあら挽き麦の味がした。二人は彼の話に耳を傾けた。二人は食べられる限りパンを食べた。彼らは黒パンを飲み込んだ。蛍光灯の光の下にいると、それはまるで日の光のように感じられた。彼らは夜明けまで語り続けた。[…]》

 どうだろう。ほとんど同じ、なのは当然として、しかしどういうわけか、私には、村上春樹のパン屋のほうがおいしそうに見えるのである。何がちがうのか?

「オーブン」と「オーヴン」はまさか関係ないと思う。「アイシング」と「砂糖」は微妙かもしれないが、一方で、「黒っぽい食パン」以上に「ダーク・ローフ」が食欲を刺激するわけでもない。だいたい、そういう単語の問題ではないだろう、とは思う。しかし、文章だってほとんど同じなのである。何がちがうのか、というか、何かちがうのか?

 両者のあいだに私が感じているちがいは、ただの思い込みかもしれない。すると問題は、何が私にそう思い込ませるのか、ということになる。だって、いま引用するのに打っていても、やはり村上訳の方がおいしそうに思えたのである。おそらく、「ロールパンは温かくて甘かった。」と「ロールパンは温かく、甘かった。」に何か秘密がある、と思う。同時に、それがすべてではないとも思う。
 それでいま考えたのはこうである。

 ――私はこの短篇を、村上訳で何回か読んでいる。村上訳には、どこがどうとは言えないが、はっきりクセがある。そのため柴田訳でこの部分だけを見ても、それを記憶にある村上訳の雰囲気のなかに置こうとして、「ちょっと違和感あるな」と思ってしまう。その結果が、“村上訳の方がおいしそう”。

 なんかつまらない説明なんだけど、真相はこの程度のものかもしれない。そうではないのかもしれない。やっぱりよくわからない。かくなるうえは、柴田元幸が何かの成りゆきで「ささやかだけれど、役に立つこと」を全訳してくれないだろうか。

 以上、結論とか考察は特にありません。そして、ほんとに驚くべきはカーヴァーの原文なんだろうけれども、話はそこまでたどりつかなかった。


補足(1):
レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)「ささやかだけれど、役に立つこと」は、短篇集『大聖堂』(中央公論新社)、または『カーヴァーズ・ダズン』(中公文庫)で読める。

補足(2):
同じカーヴァーの、別の作品なら柴田訳が存在する。村上・柴田の共著『翻訳夜話』(文春新書)におまけでついている「集める人たち」。お返しに村上春樹は、いつも柴田元幸が訳しているポール・オースターの短篇「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を訳している。なんかすごいやりとりである。

補足(3):
先月感想を書いた「飛ぶ教室」8号掲載、レベッカ・ブラウンの短篇「パン」は、なにしろタイトルがタイトルだけに、パンの描写はすさまじく気合が入っていた。


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