趣味は引用
パワーズ『囚人のジレンマ』 2/3
囚人のジレンマ

前回…
《一票はどれくらいの重みを持つのか? それは誰が票を投じるかによる。もしその一票がカエサルかリンカーンかナポレオンか神であるならその効力は絶大だ。》「一九四〇-四一年」 p116

《ホブソン家の人間は自分たちだけの言葉を話している。》「7」 p144

『囚人のジレンマ』は、「なぞなぞ」と題された章からはじまる。誰とも知れない語り手が、父親のことを回想する。自分を含む子供たちに、父は、なぞなぞを出し、ものを教えるかたちでしか接することがなかった。父とは、どんな人間だったのか。
 こんな魅力的な書き出しに続くのは、しかし、「1」と番号の振られた章で、こちらでは、ちゃんと名前のついた“ホブソン家”の物語がぎくしゃくとスタートする。父であるエディ・ホブソンは高校の歴史教師で、4人の子供との触れ合いは、やはり、知識を与えるレッスンと、ひねくれた警句、警句と区別のつかないジョークの嵐でしかなされなかった。
 そのような父のもとで人格形成したせいで、ホブソン家のきょうだい(男2、女2)は、口を開けば二重三重にねじった言い回しが飛び出し、古い映画にやたらと詳しい、はた目には鼻持ちならないインテリ集団になってしまった。もう大人になり、父の言うことを素直に聞く年齢ではないが、それは、父に対して父自身から仕込まれたやり方で応戦するようになったことを意味する(だから父には勝てない)。もちろん、自分たちがそういう奇特な存在であることも彼・彼女らはわかっていて、わかってしまったために、もう二度とふつうには戻れない。母のタメ息を聞き流しつつ、きょうだいの口喧嘩は、つねに相手の先を読み、どちらがより裏をかけるかを競うスポーツのようなものになっている。
 元凶である父エディは、むかしからの持病が最近になって急激に悪化し卒倒を繰り返しているのに、相変わらずシニカルに世間を眺め、自前の理屈で医者を拒んで(だから病気は謎のまま)、ときおり子供たちの記憶をテストするいっぽう、やはりむかしからの趣味として、架空の町「ホブズタウン」の物語をこっそりテープに吹き込んでいる。
 知に閉じこもり、実生活ではひたすら軽薄にふるまう父と、お互いのことを思いやり、思いやりすぎるせいで立ちゆかなくなりつつあるホブソンのきょうだい。彼らの内なる痛みの話が「1」、「2」、「3」と続いていくのとはまた別に、「ホブズタウン 一九三九年」のように年号の付された章もあって、ではこれがホブソン家の父エディの創作したホブズタウンのお話なのかと思うと、そう簡単にも言い切れない。そこでは、第二次世界大戦のはじまりから終戦へ向かって、大筋では歴史をたどりながら、史実を自在にねじ曲げたエピソードが続けられていく。

 ここまでで3種類の文章が登場しているのだが、(i)父についての回想、(ii)ホブソン家、(iii)歴史改変、ときっちりした区別はつけられず、それぞれのパートの配列も入り乱れている。(i)と(ii)は同じ話の別ヴァージョンなのか(そうではなさそうだ)、似ているけれど別の話なのか(そうでもなさそうだ)。
 おぼろげにわかるのは、全体をつなぐのが(ii)における父エディの存在であることと、この小説では、小はホブソン家から大は国際政治まで、ふたつ以上の要素を含む関係が、おもて向きは平穏でも、じつはみな一種の機能不全、先を読もうとするあまり、互いに一歩も動けない状態に陥っていると見なされていることである。さまざまなサイズの囚人のジレンマが寄り集まって世界を作っている。
(アカの疑いをかけられた2人の公務員が、マッカーシー上院議員の前に呼び出される。黙秘するなら懲役2年。相手を密告すれば、自分は釈放で相手が死刑。ただしお互いを密告しあうかたちになった場合は2人とも懲役10年。あらかじめ相談することはできない。最良の選択は?)
《この裏切りと協調のゲームに僕らを引き込むことで、父さんは現実の災難から僕らの目をそらしている。僕らのジレンマに父さんを取り組ませるには、僕らが父さんのジレンマに取り組まなきゃならない。》「4」 p78

 人間にとって大事なのは、自分が歴史に占める位置を知ることだ、と主張する父が、家族を痛烈な冗談で煙に巻き、世界と縁を切ったような生き方をしているのはなぜなのか。個人としての父エディ・ホブソンが、どこかで歴史と接触しているというのか。
 いささか神経にこたえるホブソン家のやりとりを追いながら、はっきり確かな枠組みはつかめないまま、どんどんあたらしい情報が積み重なって、第二次大戦のパートに重要人物が登場する。表紙を見れば明らかなように、それはウォルト・ディズニーである。

 戦争と映画は『囚人のジレンマ』で同時に描かれる。「白雪姫」(1937)、「ファンタジア」(1940)のあと経営の傾いていたディズニーのプロダクションは、まるごと国家動員されたおかげで危機を乗り切り、逆に隆盛をほこる。しかし、訓練教材や宣伝映画を製作しているうちに――《ミッキー・マウスが戦争に行くのだ》――ディズニーは日系アメリカ人の強制収容を知ってショックを受け、スクリーンと現実に境界のなくなるような空前のプロパガンダ映画を構想するようになる。作品名は「きみが戦争だ」
《やれやれ、と彼は考える。俺たちが映画によって地獄行きの旅に送り出されたのなら、世界一有名なスターネズミに、その歯を活用して引き返す道をつくってもらうしかない。だが、帰り道は往きよりずっと過酷なものであることをディズニーは知っている。》「一九四三年」 pp263-4

 虚実織り交ぜ、ときにアニメのワンシーンが生き生きと描写されるディズニーの物語には、“一票はどれだけの重みを持ちうるのか?”という問いかけが繰り返しこだましている。この声は、「きみが戦争だ」に必要な一万人のスタッフを確保して製作を進めるあいだも彼の心から去ることがない。

 小説の中盤までにパワーズが並べたカードはこれで1/3くらいだが、ここからどんな全体図を作ろうとしているのか、3つの話はどのように収束されるのか(それ以前に、話はいくつあるのか)などなど、『囚人のジレンマ』を読みながら気になる部分はどんどん増えていくものの、あとはもう、実際に読むしかない。私はこの小説をほんのちょっと紹介するつもりで書きはじめたのだった。

 でもこれだけは言っておきたい。
 いくつもの大きな展開と転回を経て、ほとんどラストに近いページで、この小説いちばんの謎は明らかになる。詳しいことは書けないので喩えで言うけれど、そのシーンの強烈な光がそこまでのページ全体をうしろから照らし返す格好になり、すると、さっきまで見えていたのとはまるでちがった小説の姿が浮かび上がってくる。
 私はある登場人物と一緒に目のくらむような思いを味わったのだが、同じくらいおどろいたのは、小説をはじめからその「ちがった姿」でとらえる手がかりも、よく考えてみれば、ぜんぶこちらに与えられていたことである。
 だから伏線の張り方が見事、というのでもない。「伏」してさえいなかったのだから。カードはすべて表になっていたのであり、またしても、この作家はどうしてこんな仕掛けが作れたのか(いや、仕掛けだけど、仕掛けではないのだ)、不思議で仕方がない。
 だって、他人の作ったものを好き勝手に読めばいいはずの私が、この小説はどうなっているのかをつかむのに汲々としているのに、当のパワーズのほうは、作中であっさりと、複数の世界を串刺しにするような一点を指し示しさえするのである。
《〈もしも〉はいまも今後も、野蛮なリアリズムに対する父の唯一の武器である。野蛮なリアリズムをくつがえすためには、まずそのリアリズムに屈しなければならない。が、くつがえすには、実際主義の世界を動かすには、梃子を固定しておくための別の場所をつくらなくてはならない。》「もしも苛酷な一分間を」 pp300-1


…続き
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