2007/06/17

リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』(1988) 1/3

囚人のジレンマ
柴田元幸・前山佳朱彦訳、みすず書房(2007)


 リチャード・パワーズの小説は、説得のために書かれているように思う。
 パワーズがどんな作家か、無理を承知で一言でまとめるなら、ピンチョン並みの博識をヴォネガット並みのヒューマニズムに注ぎ込む作家、ということになる。
 じゃあヒューマニズムとは何か。それも一言でまとめれば、「人間の一人一人には価値があって、生きていることには意味がある」という信念になるかと思う。
 これは清く美しい物言いのはずだけれども、こうやって書くのは恥ずかしく、美しいと書くのも恥ずかしかった。恥ずかしいだけならともかく、書いたそばからうさん臭くなるので嫌になる。それは、これが“一言でまとめた”立派な正論だからだ。
 立派な正論は、その「立派さ」「正しさ」のゆえに、ストレートに口にするのは難しい。そのようなスローガンをみだりにふり回さないのが良識だということになっていて、良識のない人間(=正論を葛藤も屈折もなく主張できる人間)は、どうかしているように見えてしまう。
 正しいことが言いにくいのは困った事態だが、それでもやっぱり、どうかしているように見られたくはない。それで私たちは正論にはお引き取り願い、いま目につくところにはないけれど、それは奥の部屋でちゃんと額縁に入れ壁にかけてあるのだということにする。少なくとも私はそうだ。そしてときどき、細く開けたドアの隙間からチラ見して、そこに「まだある」と確認し、自分がそれを持っていることに安心する程度にしておく。

 しかし正論は、飾られている限り、死んでいる。それを額から取り出して現実の空気のなかに泳がせたり、さらには、だれか他人に手渡そうとするのであれば、入念に背景を整えて足場を固め、徐々に外堀を埋めていった末に、相手のほうから「たしかにそれしかないわな」と納得して手を差し出してくるくらい上手に場の流れを作っておかなくてはならないのではないか。そこまでしなくては、結局、その正論は持ち主の良識にも現実の空気にも耐えられない空論で、言っても言わなくても、持っていてもいなくても、同じである。

“一言でまとめる”と“手間をかける”のちがいは、見かけ以上に大きい。前者がただ安っぽく、後者が(うまくいけば)他人に影響するほどの力を持ちうるのは、たぶん、手間をかけて準備をする過程の全体から、正論そのものが持っている以上の正しさが伝わるからだと思う。ここで正しさとは、真摯さや誠実さ、そして何より、面白さのことだと言ってもいい。
 というのは、準備作業が長く複雑であるほど、それが進められるなかで、正論を成り立たせる条件や状況も変質していくからだ。変化のあるものは飽きないし、そこに変化を与えていく作業じたいに魅力があって目の前で現在進行的に行なわれれば、「よくもそんなことが」そして「これからどうなる」と、興味は増していく。人によっては、変化していく様子をまた最初からずっと追ってみたい、という気にさえなるだろう。
 だからパワーズは、関係の込み入ったたくさんの登場人物を作り出し、位相の異なった複数の物語を少しずつ少しずつ精妙に展開させ、ときに大胆なジャンプも挟みながら、2段組400ページを越える小説を書く。
舞踏会へ向かう三人の農夫

 パワーズのデビュー作である『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)は、1枚の写真から発想された3つの物語を並行して語っていく長篇である。鮮やかなのか不器用なのか、途中まで判断がつかないような変わった手つきでその3本のラインを絡めたり絡めなかったりを繰り返し、そこから生まれる運動でもって進む、凝りに凝った作品だったが、いったい何のためにそんなにも面倒な作業がなされているのかと言えば、それは「あなたの働きかけで、世界はたしかに変わる」という信念にかたちを与えるためだった。作中でたびたび述べられるのは、たとえばこんな考え方である。

 あなたが写真を見るとき、あなたは写真から見返されている

 これは、それだけでは「ふふん」と笑い飛ばされるか、そうでなくてもせいぜい、ちょっと気の利いたフレーズとして数時間だけ(よくても数日間だけ)頭に留まり、あとは記憶から滑り落ちていくメッセージでしかない。しかしパワーズは、長篇小説の1冊を費やして、そのようなことはほんとうに起こるのだと、いまも起きているのだと、読者の前で実演してみせる。
 それは上からの説教ではない。説得である。粘り強く、諄々と説くのである。
 歴史上の出来事と架空のエピソード、人文学から科学までのさまざまな知見、多彩な比喩が、これでもかというくらい作品に詰め込まれるのは、衒学的なコケおどしを狙うのとはまったく逆で、この人は、なんとかこちらに話を通じさせようとして、ただ自分の言いたいことの敷居を下げるために、考えつく限りの材料を何でも、何度でも使う。
 その結果として、いまここで一言でまとめられるようなメッセージは、小説のなかでは、いまここにあるのとはまるで別のものとして、作品を支えている。そんなメッセージを、小説のなかで働いているままのかたちで取り出すことはできない(そして本来は、どんな小説だってそうなのだ)。
[…] パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在でもあり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのとは微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいかについてのレッスンを受けることになる。》

 パワーズの小説には手がかかっている。手がかかっているから素晴らしい、というわけではもちろんない。下ごしらえの労を惜しまず、ひたすら丹念にこちらを説得しようと奮闘する過程が、そのまま見たことのない構成をもった小説になっていて、心底たまげたというのが『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだ私の感想だった。
 最初に読みはじめたときは、半分もいかずに挫折した。数ヶ月後に再挑戦し、なんとか真ん中を越えて、こんどは最後まで読めるかな、と希望が見えてきたところにあらわれた「第十六章」、パワーズがある女性詩人の手になる一篇から引用して「私は可能性に住む」とタイトルをつけた章を読んでいたときの気持の動きを、私はおぼえている。いまめくっているページの上でものすごいことが起きている、自分は鉛筆で線を引きながらその現場に立ち会っている、見たことのない世界にこれから入っていくにちがいない――という高揚と確信がないまぜになった、不思議なおどろきが渦を巻いていた(そして本当に入っていった!)。
 そういうわけだから、これまで本を読んでいていちばん興奮したのは、『三人の農夫』の「第十六章」で小説がゆらゆらと立ち上がり立体になるのを目撃したとき、ということになるのだが、あれはそこまでの15章ぶんを読んでいった人間にだけ開かれる世界であって、たった14ページしかないあの章だけを取り出すことはできないし、その1章が全体に及ぼす働きについて説明するためには、小説を頭からラストまで説明しないと十分ではない。
 一文一文は機知に満ち、切れ味するどい警句もあちこちにちりばめられながら、総体としてはおそろしいほどに融通が利かず、省略できない手順と手間を積み重ねた構築物であるところが、パワーズの小説の欠点――どころか、いちばんの美点だと思う。
(たまたまうまくまとまった、というなら奇蹟である。奇蹟が起きたならそれはそれですごいけど、あんなことになる「設計図を描いて」「実際にあれができた」というほうが、もっとずっとすごいと私は考える)

 そのパワーズが、『三人の農夫』の次に書いたのが『囚人のジレンマ』である。

…続き

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