趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』(1988) 1/3
囚人のジレンマ
柴田元幸・前山佳朱彦訳、みすず書房(2007)


 リチャード・パワーズの小説は、説得のために書かれているように思う。
 パワーズがどんな作家か一言でまとめろといわれたら、ピンチョン並みの博識をヴォネガット並みのヒューマニズムに注ぎ込む作家、ということになる。
 じゃあヒューマニズムとは何か。それも一言でまとめれば、「人間の一人一人に価値があって、生きてることには意味がある」という信念になるかと思う。
 これは清くうつくしい物言いのはずだけど、こうやって書くのは恥ずかしく、うつくしいと書くのも恥ずかしかった。恥ずかしいだけならともかく、書いたそばからうさん臭くなるので嫌になる。それは、これが“一言でまとめた”立派な正論だからだ。
 立派な正論は、その「立派さ」「正しさ」のゆえに、ストレートに口にするのは難しい。そういうスローガンをみだりにふり回さないのが良識だということになっていて、良識のない人間(=正論を葛藤も屈折もなく主張できる人間)はどうかしているように見えてしまう。
 正しいことが言いにくいのは困った事態だが、それでもやっぱり、どうかしているように見られたくはないから、私たちは正論にはお引き取り願い、いま目につくところにはないけれど、それは奥の部屋でちゃんと額縁に入れて壁にかけてあるのだということにする。すくなくとも私はそうだ。そして、ときどき横目でチラ見する程度にしておく。

 しかし、正論は、飾られているかぎり死んでいる。それを額から外して現実の空気のなかに泳がせたり、さらには、人に手渡そうというのであれば、入念に背景を整えて足場を固め、徐々に外堀を埋めていったすえに、相手のほうから「たしかにそれしかない」と納得して手を差しのべてくるくらい上手に場の流れを作っておかなくてはならないのではないか。そこまでしなくては、結局、その正論は現実の空気にも持ち主の良識にも耐えられない空論で、言っても言わなくても同じである。
“一言でまとめる”と“手間をかける”のちがいは、見かけ以上に大きい。前者がただウソ臭く、後者が(うまくいけば)力を持ちうるのは、たぶん、手間をかけて準備をする過程に、正論そのもの以上の正しさが感じられるからだと思う。ここで正しさとは、誠実さ、面白さ、のことだと言ってもいい。
 準備作業が長く複雑であるほど、それが進められるなかで、正論の姿は変質していく。変化のあるものは飽きないし、変化を与えていく作業じたい目が離せない。人によっては、また最初から変化していく様子をずっと追ってみようか、という気にさえなるかもしれない。
 だからパワーズは、関係の込み入ったたくさんの登場人物を作りだし、位相の異なった複数の物語を少しずつ展開させて、2段組400ページを越える小説を書く。

 パワーズのデビュー作である『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)は、1枚の写真から発想された3つの物語を並行して語っている。鮮やかなのか不器用なのか、途中まで判断がつかないような変わった手つきでその3本のラインを絡めたり絡めなかったりを繰り返し、そこから生まれる運動でもって小説を進めていく、凝りに凝った作品だったが、いったい何のためにそんなしち面倒くさい作業がされているのかと言えば、それは、「あなたの働きかけで、世界はたしかに変わる」という信念にかたちを与えるためだった。そこでたびたび述べられるのは、たとえばこんな考え方である。

 あなたが写真を見るとき、あなたは写真から見返されている

 これは、それだけでは「ふふん」と笑い飛ばされるか、あるいはせいぜい、ちょっと気の利いたフレーズとして数時間だけ(よくても数日間だけ)あたまに留まり、あとは記憶から滑り落ちていくメッセージでしかない。しかしパワーズは、長篇小説の1冊を費やして、そのようなことはほんとうに起こるのだと、いまも起きているのだと、読者の前で実演してみせる。
 それは上からの説教ではない。説得である。粘り強く、諄々と説くのである。
 歴史上の出来事と架空のエピソード、人文学から科学までのさまざまな知見、多彩な比喩が、ときに下ごしらえもなしに作品に放り込まれるのは、衒学的なコケおどしを狙うのとはまったく逆で、この人は、ひたすらこちらに話を通じさせようとして、ただ自分の言いたいことの敷居を下げるために、考えつく限りの材料を何でも、何度でも使う。
 その結果として、いまここで一言でまとめられるようなメッセージは、小説のなかでは、いまここにあるのとはまるで別のものとして作品を支えている。そんなメッセージを、小説のなかではたらているままのかたちで取り出すことはできない(そして本来は、どんな小説だってそうなのだ)。
《パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在でもあり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのとは微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいかについてのレッスンを受けることになる。》
柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』

 パワーズの小説には手がかかっている。手がかかっているからいい、というわけではもちろんない。労を惜しまず、丹念にこちらを説得しようと奮闘する過程が、見たことのない構成をもった小説になっていて、心底たまげたというのが『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだ私の感想だった。
 最初に読みはじめたときは、半分もいかずに挫折した。数ヶ月後に再挑戦し、なんとか真ん中を越えて、こんどは最後まで読めるかな、と思うようになったところにあらわれた「第十六章」、パワーズがある詩を引用して「私は可能性に住む」というタイトルをつけた章を読んでいたときの気持の動きを、私はおぼえている。いまめくっているページの上でものすごいことが起きている、おれは鉛筆で線を引きながらその現場にいる、見たことのない世界にこれから入っていくにちがいない、という不思議なおどろきだった(そして本当に入っていった!)。
 そういうわけだから、これまで本を読んでいていちばん興奮したのは、『三人の農夫』の「第十六章」で、小説が立ち上がるのを目撃したとき、ということになるのだが、あれはそこまでの15章ぶんを読んでいった人間にだけ開かれる世界であって、たった14ページしかないあの1章だけを取り出すことはできないし、その1章のはたらきについて説明するためには、小説をあたまからラストまで説明しないと十分ではない。
 この融通の利かなさ、省略できない手順と手間のかたまりであるところが、パワーズの小説の欠点――どころか、いちばんの美点だと思う。
(たまたまうまく形になった、というなら奇蹟の一言で済む。それはそれですごいけど、あんなことになる設計図を描いて実際にあれができた、というほうが、もっとずっとすごいと思うのだ)

 そのパワーズが、『三人の農夫』の次に書いたのが『囚人のジレンマ』である。

…続き


舞踏会へ向かう三人の農夫舞踏会へ向かう三人の農夫
(2000/04)
リチャード パワーズ

商品詳細を見る


アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)
(2000/05)
柴田 元幸

商品詳細を見る
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。