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続・季刊誌を読んでみた

 きのうの続き:

■ 教科書専門の出版社だと思っていた光村図書は、児童文学の雑誌も出していた。その名も「飛ぶ教室」
 これも季刊で、2007年冬号の特集は、柴田元幸をゲスト編集者に迎えた“「飛ぶ教室」的文学講座”。ミルハウザーの短篇が載っていると最近知ったので買ってきた。つるつるの表紙で紙質もいい。もう次の号が出てしまっているが、バックナンバーはamazonでも扱ってるから大丈夫。

飛ぶ教室 8(2007冬)―児童文学の冒険 (8) 飛ぶ教室 8(2007冬)―児童文学の冒険 (8)
(2007/01)
光村図書出版

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《[…]意識的であるにせよないにせよ、「少年少女小説」をひとつの制度と捉えて、その制度を何らかの意味で崩しているような作品をなるべく選びたいと思った。せっかく大役を仰せつかったのだし、いまさら子供の無垢だの純真さだのを謳い上げた作品を並べたって仕方ない。》

 そんなわけで、選ばれているのは以下の作品。

 バリー・ユアグロー
 ・「大洋」(柴田元幸訳)

「yom yom」に続いてまたユアグローだよと思ったが、やっぱりおもしろい。安定して奇抜である、というのはすごいことだと思う。
《私の弟が大洋を発見する。夕食の席で、弟はそのことを報告する。「まあダーリン、素敵じゃないの」と私の母は言う。「さ、それ食べてしまいなさい」》

 短篇のほかに、柴田元幸との対談も載っていた(「桜とヤクザのいる風景」)。
ユアグロー 私は、何々派というのに属していません。それは、私が双子だということと関係があるのかもしれませんね。双子ということで、個人性というものがいつも危機にさらされていましたから、意識的にちゃんと確立しておきたいんだと思います。
柴田 双子のご兄弟も、同じように感じていらっしゃいますか。
ユアグロー いや、ちょっとタイプが違います。俺たち双子じゃないか!一緒だよ! というタイプかな。》

 なんだか笑えた。ニコラス・ケイジが双子の脚本家をひとりで演じる映画「アダプテーション」が、こんな感じの温度差だった気がする。


 アクトゥーロ・ヴィヴァンテ
 ・「ホルボーン亭」(西田英恵訳)
 ・「灯台」(同上)

 イタリア生まれの作家だそうで、どっちも子供時代を扱った、わりと正統的な少年小説。“暗い街なかで一軒だけ灯りのともったレストラン”や、“灯台守の老人”を登場させながら、ただのいい話には着地しないのがいい。


 ダニエル・ハルムス
 ・「トルボチュキン教授」(増本浩子+ヴァレリー・グレチェコ訳)
 ・「アマディ・ファラドン」(同上)
 ・「うそつき」(同上)
 ・「ある男の子に尋ねました」(同上)

 ロシアというかソ連の作家(1905-42)。どれもナンセンスな作風で、さらさらっと書き流しながら、メタな何かを素手で掴んでいる印象。子供のときに読んでも素直に偏愛したと思う。
 この作家、たしか最近、「本棚の中の骸骨」でも紹介されていたはず。絶版だった作品集が復刊されたとか。これもぜひほしい(→『ハルムスの小さな船』)。

「飛ぶ教室」は全作に挿絵をつけており、なかでもハルムスの作品についている絵は作品とぴったりでよいなあ、と思ったら、それを描いてるのは長崎訓子という人で、あれだ、きのう書いた「考える人」の「突撃!わたしの晩ごはん」の人じゃないか。シンクロニティ。(しかし、何と何の?)


 マリリン・マクラフリン
 ・「修道者」(小澤英実訳)

 北アイルランド出身の作家らしい。これは女の子特有の生理現象を扱った話。というか、生理の話だ。こればっかりはわからない。しかし思うに――
 いや、やっぱりやめた。


 レベッカ・ブラウン
 ・「パン」(柴田元幸訳)

 挿絵も入れると18ページあって、いちばん長い。全寮制の学校のような、あるいは何かの施設のような場所で生活する女の子の「私」と、そこで神格化されている「あなた」と、パンとケーキの話。はらはらする。
 ラスト近く、「ホイートロールの片側に切れ目を入れて、上半分と下半分を切り離し、二つの部分をお皿に、上の面と下の面を下に、中身を下にして置」 き、「共通のお皿に載った黄色い長方形からバターの三角形を切りとって自分のお皿に押しつけ、それからマーマレードをほんの一さじすく」って、「ロールの下半分をとり上げて、ナイフでバターを塗」 り、「その半分を下に置いて、もう半分をとり上げ、そっちにマーマレードを塗」ってから「ナイフを置いて、二つを元通りにくっつけ」 るシーンが、こんなに緊張感をもったものになるのかと舌を巻いた。あと、おなかが空いた。


 スティーヴン・ミルハウザー
 ・「猫と鼠」(柴田元幸訳)

 本命、ミルハウザー。今作では、世界一有名な猫と鼠の宿敵コンビが仲よく喧嘩するアニメを、容赦なく文章化してみせる。文字で読むと、猫に対する鼠の仕打ちがほんとひどいことになっている。加えて、ミルハウザーの筆は両者の内面にも踏み込み、しかつめらしい思索を読み取るという勝手な真似をする。
《鼠の優雅さや、教養と倦怠を漂わせたその雰囲気、余裕ある態度に自分が敬意を抱いていることも、猫は忌々しい思いとともに自覚している。なぜ鼠はいつも本を読んでいるのか? ある意味で、鼠は猫を萎縮させる。鼠の前に出ると、自分がぶざまで愚かな存在だという気にさせられるのだ。猫は鼠のことを四六時中、憑かれたように考えている。そして、あの茶色い部屋にこもった鼠が、自分のことをしばしばまったく考えもしないことを、猫は怒りの念とともに感じとっている。もし鼠があれほど無関心でなかったら、これほどの憎悪に自分は駆られるだろうか? 一緒に同じ家で仲よく暮らすことも不可能ではないだろうか? 胸に巣喰うこの憤怒の痛みから、自分は解放されるだろうか?》

《滑稽なまでに間抜けな猫が、何度も何度も失敗する自由を有していることを鼠は認識している。そのぶざまな生涯の長きにわたって、猫は何度でも失敗できるのに、翻って自分は、ただの一度もあやまちを犯す自由に与えられていない。[…]自分の抱えている退屈が危険な弱味であって、それに対してつねに用心を怠ってはならぬことを鼠は理解している。鼠は時おり思う。こんなふうに自分を見張りつづけるのをやめることができたら。自分を自由に解き放てたら! そんな思いに鼠は我ながらぞっとし、そっと鼠の穴の方をふり返る。穴にはすでに、猫の影が落ちかけている。》

 運動を、静止したコマの連続であるかのように細かく描写するミルハウザーの作風は、何を書いても人形アニメやクレイアニメに近い印象をもたらすものだと思うが、そこであえて(だと思う)セルアニメ中のセルアニメに材をとっているところにひねりが読み取れておもしろかった。勝手なのはミルハウザーか私か。


 ここまででもじゅうぶん満喫したのだけれども、しかし「飛ぶ教室」今号でいちばんの収穫は、カラーで採録された漫画2作だった。

ウィンザー・マッケイ「眠りの国のリトル・ニモ」(小澤英実訳)

フランク・キング「ガソリン・アレー」(同上)

 両方とも、新聞に掲載されたサイズの大きな作品で、その広大なスペースを、どちらの作家も好き勝手に使って遊んでいる(マッケイはミルハウザーの作品のモデルにもなった人)。だれでもそうだと思うけど、与えられてる形式自体を遊んでしまう、というのが私もやっぱり好きだった。
 以上、「飛ぶ教室」の充実ぶりはたいそうなものだった。ほかの号でも「創作特集」とかしてるので、ぽつぽつ追いかけてみたい。


追記:
「リトル・ニモ」について柴田元幸は、『愛の見切り発車』のなかでも賛辞をささげていた……のだが、新潮社はこの書評集を、ハードカバー文庫も絶版にしてしまった模様。海外文学関係に対するその見切りの早さには、相変わらず愛がないと思う。
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