2007/04/03

柴田元幸+沼野充義『200X年文学の旅』(2005)

200X年文学の旅
作品社

 柴田元幸+沼野充義『200X年文学の旅』を読んでいる。ぜんぜん読み終わらない。
 これ、出たときに買ってトークショーにまで行ったのだが、基本的にブックガイドであるこの本じたいは、一気に通読するともったいないから、少しだけ読んでは置き、またしばらくしてからめくったりしているうちに、どこまで読んだかわからなくなる。で、また最初から読み直したり、てきとうに開いたところを読んだりを繰り返しているので、もしかすると私はとうに全ページに目を通しているのかもしれない。していないのかもしれない。どちらでもいい。
 どこを開いてもおどろくのは両者の元気っぷりで、それぞれ異様に広い守備範囲でめちゃめちゃたくさん本を読んでは面白いところを紹介し、紹介するばかりか翻訳し、作家本人にも会いに行くし、イベントを企画・実行もする。そんなふたりの“最近の収穫レポート”が交互に並んでいる。そんな本。
 このような活動の結果としてこういう組織まで発足させた、精力的で活動的な学者ふたり。好きなことをとことんやる、の極端なケースとして、これはこれでタガが外れているというべきだろう。

 そんなふたりだから、似たもの同士といえばいえるが、微妙にスタンスはちがう。
 たとえば、沼野充義がよく使う「文学」という言葉を、柴田元幸はほとんど使わない。だいたい「小説」で済ませている印象。それはおそらく、柴田元幸はあんまり取り上げない詩作品を沼野充義はたびたび話題にし、むこうの詩人とも親交があることと無関係ではないのだろうけど、たんに小説と詩をあわせて「文学」と呼んでいる、というだけでもないように見える。これとは別の本を読んでいても、柴田元幸は「文学」を主語にして何か言うことはあまりない。具体的な個々の作品について、ひたすら具体的に語り、翻訳する。沼野充義ももちろんそのようにするのだが、そのうえで不思議と「文学」を背負ったような物言いをすることが多い(この本とか)。
 どちらのほうがより学者らしいかは別として、この『200X年文学の旅』のまんなかあたりにこういう記述があった。
 ――2002年の10月にモスクワの劇場を武装勢力が占拠する事件が起きたとき→参考、沼野充義はちょうど現地に滞在していたという。もし劇場の演目をあらかじめ知っていたら、自分もそこに足を運び、結果、人質になっていたかもしれない。数日後、沼野充義が予定通りにモスクワ大学で「日本における現代ロシア文学とロシアにおける現代日本文学」という講演をしたのは、奇しくも特殊部隊が劇場に突入して無理やり事件を鎮圧してからほんの数時間あとだった。
《「[…]モスクワでこれほど恐ろしい事件が起こっているまさにそのときに、文学について語らなければならないのは、なんだか気まずくもあります。いまは〈文学どころじゃない〉のではないか、現実の恐ろしい事件に対して、文学なんて役に立たない無力なものではないのか。アドルノ以来、サルトル以来、言いふるされたことですが、そんな疑念が頭を去ろうとしません。しかし、現実には、それほど恐ろしい事件が身近に起こっていても、私たちは以前と同じように生き、話し、笑い、小説を読みさえもしている。それでいいのだ、そうでなくてはならない。人が普通に生きることを、テロリストや戦争に妨げさせてはいけないのです。だから、私が文学について話したいのだったら、何が起こったとしても、私は文学について話すべきなのだ。それが結局、私のささやかな倫理的選択に他なりません」》p216

 トークショーで見た沼野充義は、岸部シローに似ていた。

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