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2007/03/01

スタニスワフ・レム『ソラリス』(1961)

ソラリス
沼野充義訳、国書刊行会(2004)


 ずいぶん前にハヤカワ文庫版『ソラリスの陽のもとに』(飯田規和訳)を読んだとき、最大の印象は「怖すぎる」だった。地表を覆う広大な海じたいがどうやら知性を持った一個の生命体であるらしい、謎の惑星ソラリス。いくつかの調査隊が先行して観測基地を作ったところに“ソラリス学者”である主人公が到着すると、基地は荒廃していた。いぶかしむ彼のもとへ「客」がやって来る……

 ずっとおぼえていたのだが、というか、そこしかおぼえていなかったのだが、わりと前半のうちに、もろもろのなりゆきで主人公が無理やりロケットを発射させるシーンが強烈におそろしかった。
 いま以上に臆病だった小学生のころ、担任だった美人の先生が大の怪談好きで、「怖い話の本なら学校に持ってきても可」というわけのわからないルールを作っていた。で、給食の時間なんかに、みんなの前で私に朗読させるのである。人から聞くのでさえ怖いのに、自分で声に出して読んだらますます忘れられなくなってしまう。ほんと嫌だった。そのせいで、ある心霊写真集のコラムのページに書いてあった、“怪物やモンスターより幽霊の方がおそろしいのはなぜでしょう? それは、幽霊は人間のかたちをしているからです。あなたと同じ人間の姿なのに、でも人間ではない。そこから怖さが生まれるのです”という、それじたいおそろしげな分析を、私は20年に渡って引きずることになる。
 しいて同意は求めない。だが、『ソラリスの陽のもとで』の怖さはこの一点に尽きた。主人公が外からロケットのハッチを閉める。すると「客」が、馴染み深い人間の外見をしているはずの「客」が、ロケットの内側から人間ならざる力でハッチをこじ開けようともがく。しかもその姿は見えない! ああ怖い。おそろしい。

 今回、国書版『ソラリス』を読んでほとほと参ったのは、上記シーンどころか、冒頭からずっと、十二分に怖いのである。たとえば、ソラリス到着直後、主人公がまだ状況を呑み込めないまま、基地内の一室に入ったあと。
《足音が聞こえてきた。誰かが廊下を歩いているのだ。音も立てずに、二歩で私はドアの前まで身を運んだ。廊下の足音はゆるまり、そしてぴたりと止まった。歩いていた人物は、いまドアの向こうに立っているのだ。ドアの取っ手がゆっくりと回り始めた。私は何も考えず、反射的に自分の側から取っ手をつかみ、握り締めた。圧力はそれ以上強まることもなかったが、弱まりもしなかった。扉の向こう側にいる誰かもまた、同じように振る舞うだけで、驚愕に襲われて声もあげられないようだった。私たちはそうやってかなり長いこと、取っ手をつかみ合っていた。それから取っ手は突然、私の手の中で跳ね返った――扉の向こうで、手を離したのだろう。そしてさらさらというきぬずれの微かな音が聞こえ、扉の向こうにいた人物が立ち去っていくことがわかった。私はまだしばらくそこにじっと立ち、耳を澄ませたが、あたりは静けさに包まれていた。》pp45-6

 強調されている静けさに、私の胸は騒ぐ。《扉の向こう側にいる誰かもまた、同じように振る舞うだけで、驚愕に襲われて声もあげられないようだった》。ドアの向こうにいたのが何者だったのか、のちに明らかにされたところで、このシーンにはりつめる緊張と恐怖は1ミリもゆるまない。

 人間とはまったくかけ離れた存在が、人間とまったく同じ外見の使者を作って、アプローチしてくる。対象となる人間の心を読み、もっとも大事な思い出からすくいあげた人物の姿かたちに造形された「客」。
 あまりにも有名なあらすじを持つこのSFが、主人公をめぐる恋愛小説として読まれることに、作者のレムは繰り返し強い苛立ちを示したという。これは、異質な知性体と人間の遭遇を(あるいは、こんな言葉はないが、遭遇を)扱った物語なのだ、と。だから巻末の訳者解説は、念を押すように「愛を超えて」と題されている。
 表面的なロマンスの意匠を超えたところにそんなテーマがあるとして、しかし、いまの私はまだ、これを恋愛ものとして読んでしまう、読者として初歩の初歩の段階にさえたどりつけていない。
 つまり、たしかに全篇にちりばめられていることはわからなくもない、それらしい会話や出来事を拾い集め、その枠からはみ出すものには目をつむったまま表面上の恋愛物語を構成することが、いまだにできない。
 何度でも繰り返すが、そんなふうに咀嚼して済ませるには、この小説はおそろしすぎるのだ。

 あちらからの接触の試みが、こちらに興味をもって行なわれる“アプローチ”なのか、実のところわからない(それは、体に虫がとまったから何気なく手を伸ばした、程度の反応かもしれない)。それなのに、相手はこちらと同じ人間の姿をしている。
 あるいは逆に、紛れもない人間の姿をして接近してくる相手とこちらの側に、実は、理解の成り立つ基盤が一切ない。
 どちらの書きかたをとるにしろ、この“出遭っているように見えて、実際にはすれ違っている”状態が、私には怖い。それは“暗闇が怖い”のにも似た、何か私の根っこのところに触れてくる怖さだと感じる。しかも主人公は逃げるどころかその状態に耐え、自分からもアプローチを図らねばならないのである。これはやっぱり、怖すぎるよ。
《[…]私はもはやそれがハリーだとはまったく信じていなかったけれども、そういったちょっとした癖に彼女の面影を認めるたびに、息が詰まるような思いを味わった。不可解で、恐ろしいことだった。しかし、何よりも恐ろしいのは、私自身が狡猾に振る舞わざるを得ず、彼女がハリーだと思っている振りをしているということだ。ところが、彼女の方は自分をハリーだと思い込んでいるわけで、そう考えて行動している彼女自身はずるく立ち回っているわけではなかったのである。事態はまさにそういうことなのだ、という考えにどうしてたどり着いたのか、自分でもわからない。しかし、それは私にとって確実なことだった――そもそもまだ何か確実なものがあるとして!》pp98-9

 レムは、ファーストコンタクトの不可能性を描いたわけではないのかもしれない。圧倒的に異質な知性体なるものがありうる、というアイディアを物語として定着させたら、必然的にこのような小説になったのかもしれない。
 しかし、とりわけ中盤の「怪物たち」や「思想家たち」の章で長々と展開される、「客」の正体であるところのソラリスの海が、さまざまにかたちを変えてうねる様子を丹念に描き続けるレムの筆致が、表向きは冷静かつ緻密であっても、次第にあんたどうかしてるよと言いたくなるくらい生き生きと躍動してくるのは隠しようもなく、結果、作者と海が一緒になって“意思の疎通”なるものを嘲笑っているかのように見える。こっちの関心はそんなところにはないのだ、と。

 彼我の境にきっぱりと開かれたおそろしい断絶を思うと、この小説を読んでいくにあたり、まるで「ソラリス:人間」の関係が「作者レム:私」の関係と相似になっているようだとか、あるいは極端に矮小化して、同じ人間と人間のあいだにも、ここにあるような断絶が実はあるのかもしれませんね、などと軽口をたたく元気も出てこない。
 ラストで主人公は、壮大な空振り、埋めようのない断絶を、“わかってあげるふりをする”ことで飛び越えようとしたのかもしれない。全然、そうではなかったのかもしれない。たしかめようにも、怖すぎるので当分再読できそうにないのである。

 いつか私も、「作者が何と言おうとこれは恋愛小説だよ、キューキョクの愛はどんな断絶も越えるんだよ」などとうそぶけるようになるのだろうか。
 まずそのように誤解して、しかるのちにそれを乗り越え(「愛を超えて」!)、レムの知性論にまで踏み込むには――これは作中で主人公のたどった道筋でもある―― 先は果てしなく遠いように思う。
 つくづく、あの担任教師が恨めしいのだった。



ソラリスの陽のもとに (ハヤカワ文庫 SF 237)ソラリスの陽のもとに (ハヤカワ文庫 SF 237)
(1977/04)
スタニスワフ・レム

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コメント

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はじめまして

「巨匠とマルガリータ」を検索してこちらにたどり着きました。
「ソラリス」は私の大好きな作品ですが、私も「恋愛小説」だと思ったことは一度もありません。

>人間と人間のあいだにも、ここにあるような断絶が実はあるのかもしれません

この文章はかなり正確なレム評だと思います。この作品の中でクリスは、ハリーはおろか、スナウトやサルトリウス、そしてギバリャンともうまくコミニュケートできないわけですから。

TBさせていただきました。

はじめまして

ひどく返信が遅くなり失礼しました&おそれいります。
レムはもう10年くらい寝かしてから読んでみたい作家です。
風化しようがないと思うので。
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