趣味は引用
岸本佐知子『ねにもつタイプ』(2007)
ねにもつタイプ
筑摩書房


気になる部分がいくつかの雑誌に掲載されたさまざまな文章を集めてできていたのに対し、本書は筑摩書房のPR誌「ちくま」での連載エッセイをまとめたものである。そのため、わりと“小さくまとまって”いるのではないかとひそかに心配していた私こそが小物だった。

・他人からすればどうでもいいことを、「これはきっと他人からすればどうでもいいことであるだろうよ」と自覚しながら、気にし続けてしまう
・子供の頃のことをやたらとおぼえている

 このような読者にとって、本書に収められた文章は、どれもこれも静かな爆弾である。あきらかな“変”が明晰に綴られていくさまに「わかるわかる」「あったあった」と身をくねらせながら読んでいくと、しかし結局は、こちらの共感になど回収しきれるものではない“さらなる変”が炸裂している。
 もうあと3歩、いや半歩だけでも突き詰められればこのようなエッセイのネタになっただろう思いつき・記憶を私も持っている、と感じさせておいて、別の星くらい遠いところからこちらを見ている。押してほしいスイッチを的確に押してくれるだけのエッセイはほとんどなくて、実際には、押されてはじめて私はそんなところにスイッチがあったことを知り、しかも、よりにもよってそんな押し方があったのかとおどろいているのにちがいない。

 身辺雑記に限らず、回想でも妄想でも(あるいは回想のなかの妄想でも)、書き手がつねに自分の書くこととのあいだに距離を保っているのが鍵なのだろうと思うが、その隙間から“明晰”と“変”の両方が生まれる仕組みは、どんなに目を凝らしても、ページを明かりに透かしても、理解しがたい。
 どこかでするりと向こう側に移っているはずなのだ。その飛躍を見定めようと丹念に読み返しているうちに、逆に今度は、どこまでが自分の「わかるわかる」の範囲内だったかもわからなくなっている。
《二年生の時、朝礼の校長先生の話を聞きながら、うつむいて自分の体を見ていた。体の脇に、腕がだらんと垂れている。手の甲が正面を向いている。それを上にたどっていくと、肘の部分は“折り曲げ線”が正面を向いている。待てよ。変だ。手の甲は“表”、日に焼けて色の黒い側だ。でも折り曲げ線は白くて柔らかい“裏”の側だ。表と裏が同じ正面を向いているのはおかしい。ひょっとして、自分の肘の付き具合は間違っているのではないか。私は急に恐ろしくなり、そっと周囲の級友の肘を盗み見たが、みんな腕を後ろにやったり動かしたりしていて、よくわからない。どうしよう。この先ずっと、この秘密をみんなから隠し通して生きていくのだろうか。そう思うと、校長先生の話も周囲の景色も、すうっと遠のいた。》「じんかん」p25

《最近、気がつくといつも一つのことを考えている。
 何かといえば、それは「ちょんまげ」のことだ。
 どうしてみんなは、あのような異常な髪型を平然と受け入れることができるのだろう。時代劇を観ていて、何の違和感もおぼえないのだろうか。[…]
 そこで、私なりに納得のいく説明を考えてみた。
 ①ある大名が歳をとり、頭頂部が完璧に禿げ上がった。それを見た家来たちは、殿一人に恥をかかせてはならぬと頭頂部の毛を剃って出仕するようになった。すると大名は家来の忠誠心の限界を試したくなり、今度は側頭部の毛を伸ばしはじめた。家来はすかさずそれに倣った。こうして髪型はどんどんエスカレートし、ついに「ちょんまげ」が完成された。一連の顛末は、主人と家来の固い絆を物語る美談として城下にまで伝わり、心を打たれた町人たちが競って真似をするようになった。》「疑惑の髪型」p78

 収められたエッセイは48本、それぞれにクラフト・エヴィング商會のイラストが付いていて、こちらもエッセイときれいな距離を作っている。期待していた通りに満喫できたのだが、満喫しながら、あやしくなってきた。
 ――私もミシン台を秘密基地に見立てていたような気がする。深夜の通販番組は、どんなに強力な洗剤よりも、洗剤によって落ちる“汚れ”の方を売るべきではないかと考えたことが、自分にもあったと思えてならない。「赤ん坊」という文字を見てつくづくおかしな言葉だと感じたのは、つい最近ではなかったか。電車の窓の外を飛び去る風景のなか、子供が電車にぶつかる絵に「かげもかたちもなくなるぞ」と書いてある看板を、はたして、私も見たのだろうか。


文庫版(2010)も読んだ。
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