2007/01/03

 帰省してきました。本年もよろしくお願いいたします。

 以下は夏目漱石『門』からの引用。これ以上にお正月らしいお正月の描写は見たことがない、と読んだときは興奮したのだったが、「お正月」と「興奮」は似合いませんね。
《家へ帰ると、小六は火鉢の前に胡坐を掻いて、背表紙の反り返るのも構わずに、手に持った本を上から翳して読んでいた。鉄瓶は傍へ卸したなり、湯は生温るく冷めてしまった。盆の上に焼き余りの餅が三切か四片載せてあった。網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。》

 毎年、お盆と年末の2回実家に帰る私は、ここしばらく、帰省するたびに、ちくま文庫の『夏目漱石全集』を1冊ずつ読んでいた。『第1巻 吾輩は猫である』からはじまって、全部で10巻。去年の夏に帰ったとき『第8巻 こころ 道草』を読み、先月のうちにフライングして『第10巻 小品 評論 初期の文章』を読んでおいたので、今回いよいよ持って帰ったのは『第9巻 明暗』。これで最後。けたはずれに長い『明暗』は、元旦の昼に最後まで読んだ。4年半かかってこの全集を読了した計算になる。しかしぜんぜん落ち着かない理由をこれから書く。次の夏からは何を持って帰ろう。

夏目漱石全集〈9〉 夏目漱石全集〈9〉
夏目 漱石 (1988/06)
筑摩書房

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 変な小説である。「よせばいいのに小説」と呼びたい。『坊っちゃん』を書いた人がこれを書いたと思うとつくづく不思議だ。
 中心には一組の夫婦がいて(津田・お延)、それなりに穏やかな生活を送っているのだろうに、お互い何か、片付かない気持を抱えている。で、よせばいいのに“本当は何を考えているのか”心理の読み合いが行なわれ、そっとしておけばいいのにそれぞれの親だの妹だの叔父・叔母だの世話好きな知人だの迷惑な友達だのが介入してきて、尋ねなければいいのに、答えなければいいのに、えんえんと他人の気持の推測合戦が続けられる。考えなければいいのに!
 ここでは、夫婦間の愛のあり方とか、過去の落とし前とか、社会正義とか、ぜんぶ口実で、小説はひたすら、放っておけば済むことをつつき回して事態を悪くする人びとの姿をあぶり出す。全篇が決闘みたいな詮索、駆け引き、疑心暗鬼、鎌の掛け合い、意地の張り合い、いらない気配り、下手な腹芸、やせ我慢、その他もろもろ。「本当はどう思っているの」という問いは、「本当はこう思っているんでしょう」という詰問に変わり、「そうじゃない」という返事とあいまって泥沼的にこじれていく。
 そんなやぶへびのジェットコースターみたいな進行であっても、進行は進行だから、次第に人間関係はしかるべく展開していき、それに連れて場面も変わらざるをえず、そうなると、いかにもクライマックスみたいなクライマックスが着々と準備されてくる。漱石は剛腕だ。あるいは小説という入れ物が剛腕なのか。
《「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」》p351

《「[…]こうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろうと思って――」
「そんな事を思っているもんですか、なんぼ私だって」
「いえ、思っているのと同なじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」
 津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質じゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳だぐらいに考えているんです」
「まさか」
「いえ、そうです。そこがまだ私に解らないと思ったら、大間違いです。[…]」》p462

 続けざまにこういう非難を浴びせられ、妻をいじめられ、妻にいじめられ、妻をいじめもする津田が、しかも小説の大半を痔の手術のあと入院中のベッドの上で過ごしているのはあまりにかわいそうだった。小説の悪意。

 それにしても、「百八十八」まで続いてなお未完に終わったこの小説の、まさかの断ち切られ具合には驚いた。そこか。そこで切るか。こういう言い方はまことに安易だけれども、ここで未完になってしまった点までも漱石の才能だったんじゃないかと思いたくもなる。
 年の初めに茫然とさせられた。今年も小説を読もうと思う。

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