2006/12/17

木村榮一×高橋源一郎トークショー @ABC

 青山ブックセンター青山本店で、「木村榮一×高橋源一郎トークショー “物語は永遠に”」を聞いてきた。新潮社のガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』『コレラの時代の愛』刊行記念。木村榮一さんは両方の訳者です。

 はじめに『わが悲しき娼婦たちの思い出』(90歳の誕生日に処女を欲しがる男の話)、次に『コレラの時代の愛』(ひとりの女性を50年以上待ち続けた男の話)のあらすじと、見どころ紹介があった。
 どちらも「老い」が前面に出ている作品ながら、ガルシア=マルケスは依然元気なんだそうで、本を読むにも老眼鏡が必要な高橋源一郎(55歳)がしみじみ語るところによれば、人は年をとっても、14、15のころと何も変わらないらしい。
(社会との取り引きに加わることで大人になったつもりの人も、そういうとこから引退すると「子供に戻る」。「しかも作家ははじめから社会と関係がないんですね」)

 小説のなかで実際に何が起きているのか曖昧なあるシーンについて、スペイン語原文を日本語に直した木村氏と、その日本語を読んだ源一郎氏とで解釈がちがっていたのが面白い。それが立派な翻訳ということじゃなかろうか、と、『エレンディラ』を読んだときから木村榮一ファンの私は思った。
 原文と翻訳の朗読もあり、あとは木村氏の、「雨が降るとぜったい事故るカーブ」そのほか、メキシコ奇譚(本にできない)に笑う。関西弁を全開にしてから、がぜん喋りに勢いがついていた。
 とくに興味をひかれたのは、後半、源一郎氏が「“ファンタジー”や“フィクション”を書こうと思って書く小説家はいないんじゃないか」と、やたら原理的な発言をしてからのやりとり。

・リアリズムの近代文学が危機に瀕すると、どこの国でもオーラル(口承的)なものが復活する
・現実と言葉を一対一で対応させるリアリズムの規範では「嘘」に分類されることを書いている作家でも、みんな「自分にとっては本当のこと」を書いているはず(ラテンアメリカ文学につけられた「マジックリアリズム」という名称は、もともとよその国の学者によるレッテル)
・砂漠では一神教、森では多神教、前者がリアリズムにつながったが、後者だって生きている……
 エトセトラ。

(現実的なものごとと非現実的なものごとがごたまぜで描かれ「マジックリアリズム的」だと評される小説を読んで、私の場合、いつもよくわからなくなるのが、じゃあ、ごく現実的なものごとだけを扱っているはずの小説はどこまで現実的だといえるのか、小説という虚構のなかで何が現実的だといえるのかということで、だからといって「何も区別しない」のもちがうんじゃないかという実感がある。これはいくらでもぐだぐだ言えることなのだけど、そういった抽象的な物言いで何かひとつのものさしがあるかのようにふるまうより、「現実/非現実の基準は個々の作品によってちがう」という当たり前のことを受けとめて1作1作小説を読んでいく方がいいんだろう)

 日本におけるリアリズムとしての近代文学が終わるのを見届けるのが自分の役目じゃないかと任じる高橋源一郎が「文學界」連載中の評論「ニッポンの小説」は、年が明けて1月15日の刊行予定、と最後にうまくつなげて宣伝していた。

 以上、当然のことながら、ぜんぶ私の記憶のトークショー。


 ○ ○ ○

ガルシア=マルケスその他、前に書いた感想を一応。












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虚航船団について

虚航船団『虚航船団』(きょこうせんだん)は、1984年に筒井康隆が発表した長編小説。「文房具」「鼬(イタチ)族十種」「神話」の三章からなる書き下ろし。発表当時、その特異なストーリーと実験的な手法は大きな話題となり、評価は好悪ともに極端に分かれて論争の的になっ