2006/12/09

「パプリカ」を見にいく

今敏監督、2006


 映画版「パプリカ」を見てきた。なにかすごく見事な90分だった気がする。

 原作だと、いくつかの出来事の進展を追うことで設定を説明し、中盤あたりから徐々に加速、クライマックスへとなだれ込むのだったと思うが、映画はこれを大胆にカットして再構成、原作の軸であるストーリーがいよいよ盛り上がってきたあたりからはじまるので驚いた。しっちゃかめっちゃかな幕開けにひたすら急展開が続くなか、随所随所で必要な説明を織り込んでいく。要領のいいダイジェストというより、蛮勇に近い力技。

「パプリカ」の舞台は近未来の日本、精神医療研究所。この世界では、特殊な機器を使うことで患者の見ている夢を映像としてモニタしたり、セラピストがその夢のなかに入り込むことができるようになっている。患者と一緒に夢のなかからビョーキの原因を探索するのである。なかでも優秀な研究員である千葉敦子は、“パプリカ”というコードネームでもって社会的に地位のある患者の治療を極秘裏に行ない、めざましい効果をあげている。さらには“DCミニ”という新装置によって、患者とセラピストは簡単に夢を共有することができるようになったのだが、これを悪用すれば任意の相手に他人の悪夢を投射して精神を破綻させることもできるから、千葉をこころよく思わない人間はもちろん悪用しようとする。しかも“DCミニ”には、使えば使うほど効果が高まっていく特性があり、ひらたく言うと、使用者の夢の出来事が現実に発生する。かくして世界は現実と夢が入り混じり、そんななかで“DCミニ”の争奪戦および人格破壊を狙った戦いが勃発する。映画はここらへんからはじまる。

 同じ今敏の監督した「パーフェクトブルー」(1998)というアニメは、たしかアイドルから女優に転身した女の子が主人公で、はじめのうち、そのまま実写にできるくらい地味で淡々とした話が進行するのだが、彼女は現状に対する不満から次第に妄想を膨らませ、それは徐々に現実を侵食してだんだん区別がつかなくなっていき、ついには現実/妄想の境界が破れます、みたいな映画だったと記憶する。しかしこのようなあらすじ以上に私がはっきり憶えているのは、8年前にこれを見たとき、やたらと反感を抱いたことだった。
 思うに、アニメは“現実”と“非現実”を描き分けるのには向かないのじゃないだろうか。「パーフェクトブルー」には、リアルな描写で組み立てた“現実”があることになっていた。そこに“非現実”を並べてくるのだが、下地の“現実”にしてからが、どれだけ緻密な絵で描かれていても(緻密な絵で描かれているほど)“非現実”を描くのと同じであり、両者の混乱をめざす以上、それぞれを明確にちがった質の絵で描くわけにもいかないから、ますますどちらも同じものにしか見えない。
 たぶん監督は、現実も非現実もいっしょの絵になってしまうというアニメの特性を逆手にとって、どちらも区別できなくなる映画を作ろうとしたのだろうが(だから「どっちも同じに見える」のは意図した通りでもあるのだろうが)、それだけに、はじめに“現実”をきっちり作り、それとはちがうものとして“非現実”をちらつかせ、最後に「なんと!区別がつかなくなりました!」と驚いてみせるような過程のぜんたいがひどくマッチポンプに思え、しらけてしまったのだった。自明の前提がこの映画のゴールだったのかと。
(ただ、「アニメは現実も非現実も同じで描かれるから区別がつけにくい」のなら、「小説だってぜんぶ同じ文章で書かれる以上、やはりその区別はついていない」のかもしれず、現実/非現実のちがいを虚構の階層の描き分けと捉えれば、「メタフィクションなんてないのでは」とも思えてくる。作者がメタフィクションのつもりで書いているものをメタフィクションとして読まない、という無作法にいまの私は惹かれている。一方、やっぱりアニメと小説は別物で、あの平坦さのためにアニメの絵は文章よりも不自由なのかもしれず、しかし、文章が平坦でないと感じられるならその根拠はどこに求められるのか、などと考えても煮詰まるばかりで落ち着かない。この個人的イライラが「パーフェクトブルー」への反感になったのだとしたら、あれは八つ当たりだったのかもしれないと8年目にして気がついた。そのうち見直したい)

 ここで「パプリカ」に戻ると、この映画では、前述したように原作の序盤を大幅にカット、登場人物にとって、覚めて見る世界と夢のなかがごっちゃごちゃになっている状況からはじまる。これはなによりもまず、長い原作を90分にまとめるための方策だったのだろうが、そのために映画は現実/非現実の区別を取り払ったところからこころおきなくスタートを切ることができる。“DCミニ”のおかげである。両者はいきなり同じ平面に描かれているのであって、そうなるとアニメは強い。たびたび繰り返される妄想の(=現実の)パレード。一目で黒幕とわかる悪役のように、はっきり類型的なキャラ。場面転換につぐ場面転換。コスプレとコスプレとコスプレ。開き直った職人芸を見た。起きている危機は世界中、あるいは日本中、少なくとも東京都区内を巻き込む大事件であるはずなのに、「主要登場人物」以外の脇役をほとんど出さないという潔さによって、この映画はかえってスケールが大きくなった気がする。パプリカ最後の戦法にはおそれ入った。

 そのようなわけで「パプリカ」は、“DCミニ”の代わりに“ヤク中の人”を持ち込んでリアルとでたらめをいっしょくたにした漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』(しりあがり寿)並みにうまくできているんじゃないかと思った次第です。


追記:
 人から言われてなるほどと唸ったが、「妄想を絵にするとパレードのかたちをとることが多い」のはなぜだろう。『真夜中の弥次さん喜多さん』もそういうシーンのオンパレードだった。パレード・オンパレード。って、言ってみたかっただけである。

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