2006/11/30

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その47


[前回…]

 いやまったくどうしたものだろう、というのは「ガルガンチュワとパンタグリュエル」の第1巻、『ガルガンチュワ物語』を私は2ヶ月も前に読み終えたのであり、とっとと第2巻『パンタグリュエル物語』へ進めばよかったのである。それが何だか、最後の部分をまとめるにあたり、9月の終りに1回更新、次が10月の終わりと1ヶ月開き、やや、更新しないでいただけなのに、不思議とますます更新しにくくなってきたぞと思っているうちにまた1ヶ月がすぎた。
 空は高く澄んだり重く曇ったり、部屋の座卓はこたつに変わって、半年前に告知のあったピンチョンの新作はたしかに投下され、私はハチミツしょうが湯の粉末を戸棚に買い備えた。もう数日もすれば赤と緑の装飾がそこらじゅうにあふれかえるだろう。この読書日記をどうしたものか、さすがにそろそろ考えないといけない。

(1) 何事もなかったかのように更新を続ける
(2)

(1)しか思いつかなかった。しかもここまで書いてしまった以上、「何事もなかったかのように」ではもはやない。
 こうやって騒いでみせている私のほかにこの読書日記の停滞を気にしている人などいないことは承知している。なおさら「何事もなかったかのように」更新してしまえばよかったのかもしれない。それでも、こんなふうにじたばたしてみないことにはどうにも恥ずかしく、なんとなれば、じたばたするのが恥ずかしいのと同様に、「何事もなかったかのように」するのもまた恥ずかしいからだった。いやブログ自体が恥ずかしい。何もかも恥ずかしい。

 そろそろいいかな。

 私はちゃんと憶えていたのだが、話は「テレームの僧院」だった。『ガルガンチュワ物語』の最後にうち建てられた、理想の空間。建物それ自体から居住する者のアクセサリーまで、最高級の原料・材料から作られたあらゆる設備とあらゆる調度が細心の気配りをもって用意された、このうえなく豪奢なラブレーのユートピアである(それがこの物語のなかでどのように異質なのかを前回書いた、と繰り返す)。
 この修道院に住む人々(テレミート)はどのような人間で、ここで暮らすにあたってどのような戒律が定められていたか。こうある。
《彼らの生活はすべて、法令や定款或いは規則に従って送られたのではなく、皆の希望と自由意志とによって行なわれた。起きるのがよかろうと思われた時に、起床したし、そうしたいと思った時に、飲み、喰い、働き、眠った。誰に目を醒まされるということもなく、飲むにせよ食べるせよ、またその他何事を行なうにつけても、誰かに強いられるということはなかった。そのように、ガルガンチュワがきめたのである。一同の規則は、ただ次の一項目だけだった。

 欲することをなせ。 》p248

 それというのは、正しい血統に生まれて充分な教養を身につけた心の美しい人間は、「常に徳功を樹て、悪より身を退く」ものだというのがラブレーの考え方だからである。一種の選民思想と性善説がないまぜになった、しかしあきらかに日向の匂いがする人間観だといっていいと思う。ガルガンチュワの排尿で溺れ死んだパリ市民や、ジャン修道士に虐殺された兵士の群、それら無数の死骸のあとに、こういった明るい世界があらわれる。なんだか茫然とした。
《このようなわけであるから、この修道院の男子の誰かが、その両親の求め或いはその他の理由によって、修道院から出ようと思った時に、婦人たちのうちで、自分をその忠実の愛人と認めてくれるような女性を一人連れ出して、両人で結婚してしまうこともあった。そして、テレームの修道院内で十分い献身と友愛との生活を送った以上、彼らは、夫婦の契を結んだ後も、更にこの心境を保ち続けたのであって、その晩年にいたるまで、結婚当初の日と同じく愛し合ったことも、故なしとは申されぬのである。》p250

 ラストの第五十八章には、この僧院の地下から発見された長い長い謎歌(108行ある)が続き、それを読んだガルガンチュワとジャン修道士の解釈合戦でもって、この第1巻に幕が下りる。またぞろ含蓄があるんだかないんだかわからない言葉が飛び交うかと思うと、ふたりの対話はこの一言で打ち切られる。
《されば、これより大盤振舞い!》p258

 たしかに「これしかない」と感じさせる言葉であるだろう。
 次回から第2巻です。

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