2004/08/01

ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』(1972)

ケルベロス第五の首
柳下毅一郎訳、国書刊行会(2004)

 訳者あとがきで柳下氏は書いている。
《本来ならばこの小説は何ひとつ情報を与えられない、白紙の状態で読みはじめるべきである》

 そんなことはもちろん無理だ。自分は殊能将之による、一連の「『ケルベロス』がいかにすごいか」的文章でこの作品を知り、ネット上で見かけた「無駄な文章は一行もなくすべてが機能する」などの情報に興味を覚えて2520円(税込)をキープしておいたのだから、当然「どんな緊密な構成なのか見てみたい」という姿勢で読みはじめた。白紙には程遠い。

 双子の惑星サント・クロアとサント・アンヌを舞台に、(1)「ケルベロス第五の首」、(2)「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」、(3)「V・R・T」という中篇が三つ入っており、(1)では高級娼館の主を父とする「わたし」が語り手として子供時代を回想する。「わたし」は何かの罪を犯して収監されていたようだ。地球出身らしいマーシュ博士がサント・アンヌの原住民をめぐる民話をまとめたのが(2)ということになっているが、当の博士は囚人となって、(3)は彼の尋問記録・昔のノートを組み合わせてできている。

 読後感は、再読すればものすごいことになっているのかもしれないに尽きる。
 核心に「曖昧さ」を持ち込むことで複数の真相(真相の可能性ではなく)を定着させる試みがされているらしいのはうかがえて、たしかにあちこちで「曖昧さ」にぶつかるが、ものがものだけに、どこまでが自分の読み落としのせいで「曖昧」になっているのか、どこからが作品の意図する「曖昧さ」なのか、さっぱりつかめない。真相以前に「謎」からしてわかっていないんじゃないかという気もする(この困惑全体が意図されているのだと言い切るには、もっと困惑を解消しないといけないと思う)。

 単品だとファンタジーとしか言いようのない(2)は、何が起きているのか、誰が誰なのかさえ把握しがたい不思議な話のくせに、どうにも止められず一気に読んでしまう吸引力があった。
 いま「誰が誰なのかさえ」と書いたが、「さえ」どころかこの問題を中心に三篇が書かれている気配は薄々感じられ、だからこそ(1)は「わたし」と「記憶」を取り扱っているのだし、夏の夕暮れの雰囲気を見事にたたえた文章のうつくしさにもうつくしさ以上に巧妙な作為が紛れ込ませてあったんだろうとは思いながら、初読の自分は圧倒的な語りのうまさにただ酔わされたまま、最後のページで途方にくれている。

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