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ロ?

 新訳『ロリータ』刊行記念、若島正×沼野充義トークショーに行ってきた。定員40名って、いつもの青山本店の会場ならその3倍は入るよ。

 で、対談はほとんど「本の紹介」と「翻訳の舞台裏話」に終始した。たいてい、当の本の「訳者あとがき」に書いてある、もしくは若島ページに書いてある話、という感じ。
 書店でのトークショーは「宣伝」なのだから(まだ買っていない人に買わせる)、こういうのがありうべき普通の姿なのかも知れない。たとえ定員が40名であっても。
 でもなあ、私は「すでに買って、読んだ人」を相手にした、書店としてはサービスでしかない企画がたまにはあってもいいと思うのだ――と書いてみて、駄々をこねているだけの気もしてきた。やはりあのときのが異常だったのか(「すみませんオタクなんで」と柳下毅一郎は謝っていたが、ぜんぜん悪びれていなかった。立派だった)。

 それでも、聞いたことは書いてみる。
 長いことは長いけど、以下、「読み」のレベルでの話はほとんどないかもしれません。「訳者あとがき」で紹介されていた“修正派の議論”並みにこちらを驚かせ、「おれは何を読んでいたんだ」と自分の目の節穴具合を呪いたくなるような話というより、一見ひたすら表面的・周辺的な話題がえんえんと続くのをご承知おきください――って、まるで誰かを恐れているような私であった。
 参考までに『ロリータ』のあらすじ:

 この小説は「ハンバート・ハンバート」と名乗る中年男が獄中で書いた手記、という形式をとる。彼は9~14歳くらいの女子に惹かれる少女愛者だった。
 ヨーロッパからアメリカに渡って生活していたハンバートは、37歳で偶然出遭った生意気な少女に心臓を射抜かれる。彼女の名はドロレス、愛称はロリータで12歳。彼は彼女の母親と近づきになるなどいろいろ手を尽くして願いを実現する。ロリータと2人、モーテルを泊まり歩きながらアメリカを転々と移動し続けるハンバート。恋の逃避行?
 しかし、やはりロリータに目をつけていたもう一人の少女愛者・クィルティが彼らを追っていた。2年間におよぶ大旅行の末、ハンバートに飽きたロリータは、彼を騙してクィルティと共に姿を消す。
 失意に沈むハンバートのもとに、3年後、手紙が届く。クィルティとも別れ平凡な男と結婚していたロリータが、金を無心してきたのだった。念願の再会を果たしたハンバートだが、彼女はもう自分のもとには戻らないと思い知る。彼はクィルティの居場所を探し当てて銃殺する。逮捕。投獄。ひたすらロリータを思いながらハンバートは手記を書く(→最初に戻る)。
 ――弁護士と精神科医により、少女愛という異常な精神病理の記録としてこの手記は出版されるのであるよ。

[肝心なところには一切触れていないのは、実物を読んでもらえればわかるはず]

 ○ ○ ○

W:が若島発言、:が沼野発言をまとめたもの。
 もちろん私が記憶にあるのを改変してつなぎ合わせた捏造(時間的にすごく開いた発言をひとつにくっつけたりしている)なので、聞きちがい・事実誤認はないはずがない。くれぐれも、両者がこんなふうに喋ったとは思いませんよう。なくもがなの私のコメントは、小さい文字の[ ]でくくっておく。


■ 翻訳作業:

W: 1年前に新訳の話が来たときにはこわくて震えた。実際の翻訳は2ヶ月の集中作業。しかし訳し終えても「達成感がない」。何度か授業で扱ったのでこれまで5、6回は通して読んでいたつもりだが、今回、はじめて読んだような気分。
『ロリータ』はハンバートがロリータを手に入れるまでの第1部と、そのあとアメリカじゅうをドライブする第2部からなり、よく“第2部に入るとだれる”と言われてきた。自分も読んだつもりでところどころ読み飛ばしていたのかもしれない。しかし今回、なにしろ翻訳するので全篇を細かく見ていったわけだが、「どこも読み飛ばしていいところがない」。
ふつう翻訳は先に進めば進むほど慣れてきてスピードが上がるものなのに、『ロリータ』は後半が次第に難しくなっていくので最後までスピードが変わらず苦労した。
なかなか取りかかれなかったのは、まず、英語の言葉遊びをどう訳すか悩んでいたから。なにしろ書き出し(「序文」を除いた書き出し)からいきなり難しい。
Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.

冒頭、ナボコフは“L”の音を重ねる技巧を凝らしているわけだが、そんなの翻訳不能である。どうしたものか。「光(ライト)」とか「人生(ライフ)」とかルビをふるのも変だし。そう考えて詰まり、ずっと訳を書き出せなかった。
ところがあるとき思いつき、ナボコフ自身によるロシア語訳版を見てみた。
[ナボコフが自分で英語→ロシア語に訳したのは、長篇だと『ロリータ』だけらしい。逆パターンはけっこうある]

すると何のことはない、作者であるナボコフも、英語の音は拾わずに直訳していたのだった。じゃ、いいや。これで最初の一行に手をつけることができた。
《ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。》p11

“loins”を素っ気ない「腰」の一語にしたのは、その周辺を漢字一文字で揃えたかったから。
[おお、ほんとだ。気がつかなかった]


■ 沼野充義見るところの「若島訳の特色」:

(1)ロリータの言葉遣い
 現代(2005年の日本)の口語的。十年後に古びないか。

(2)正確化
 「下手な訳」と思われるリスクを冒して、比喩は比喩として残している。

(3)言葉遊びは日本語でも遊ぶ
 これも、「下手な訳」と思われるリスクを冒して……

(4)「そのもの化」
 訳注を付けないで「小説そのもの」を提示している。「わかる人だけわかればいい」ということ?

 [以下、雑駁に補足]

(1)ロリータの言葉遣い、について
W: 「この小説は何の小説か?」という問題がある。これはたしかにハンバートの手記だが、彼の少女愛と“語り”を抜いたら何も残らないのかというと、そうではないと思う。
自分もはじめて読んだころは、ハンバートにばかり目がいった。しかし長いこと読んでいると、“ただの被害者ではないロリータ”が見えてくる。この読みの変化が早く起こるように、ハンバートとロリータのズレを大きくして訳すことにした。フランス語混じりの英語を操るハンバートから、ロリータを引き離す。『ロリータ』が、ロリータという一人の少女の物語でもあることを強調したい。言葉遣いを大胆に変えたのはそういう理由による。

N: ナボコフによるロシア語訳を見ると、原書に比べて、ロリータの言葉は汚くない。「はすっぱなアメリカ娘の口語」に対応する言葉が、ナボコフのロシア語の語彙にはなかったのかもしれない。

※今回の新訳版に巻かれている帯の言葉:「幻の美少女など、幻想に過ぎない――」

(2)正確化、について
W: 『ロリータ』の英語は変である。英文学の名作からすれば、「許しがたいほど変」である。新潮文庫の旧訳は、まぎれもないプロの仕事。ただ、あまりに上手に、つるつる読めるよう訳しすぎ(そこが「プロ」)。それに対して自分の訳は、“変な英語は変な日本語に”を方針とした。「ハードカバーなだけに読みにくい(ハード)はず、わからない部分は文庫版を見てください」。
「変」の例として、ハンバートの発話する台詞がときおり、現実で人が口にできるとは思えないものになっている。あれはハンバートがインテリだからというだけではなく、この小説が彼の書いたものだから。彼は実際に自分のした言い方を、書くにあたって変えている。ときには他人の言葉も変えていると考えられる。
[ここ、(1)と考え合わせると難しいんだよな]

(3)言葉遊びは日本語でも遊ぶ、について
W: とにかく頭韻が多い。最初は無視しようかと思った。日本語で拾えたのはたぶん4~5割。

(4)「そのもの化」、について
W: 自分が「ほとんど訳注をつけない」主義なのは、注は原文に付いていないから。小説に注は要らないと考えている。
『ロリータ』最初のページにはポーからの引用があり、最後のページにはアルタミラの壁画に描かれた動物の名が出てきたりする。でも自分は「最初と最後を訳注(割注)で汚したくなかった」。

N: 別に注だけで1冊書いてみたらどうか。
[また、会場から「一般読者としては注がほしい」という声も出た]

W: 注を付けることで「終わった」つもりになるのは嫌だし、そもそも、その作業は終わりようがない。アルフレッド・アッペル・ジュニアという人による注釈付き『ロリータ』(本文300ページに対して注が150ページ)もあるが、それは当然、“アッペルの注”にすぎない。
これから『ロリータ』について1冊書くが、それは小説の4ページ程度を徹底的に読んでみせるという実演で、注釈ではない。あとはみなさんご自分でやってみてください、という姿勢。
[これ、若島サイトの掲示板でのやり取りで、より詳しい態度表明があった]


■ 現代と『ロリータ』、みたいな?

W: 出版は1955年だが、ナボコフも『ロリータ』が本当に読まれるのは50年後を期待していたのでは。現代では少女愛者による犯罪が連続しているが、小説中のハンバートはひたすら“犯罪にならないよう”努力している。そこは現実の犯罪者と違う。
[ハンバートが捕まったのはクィルティ殺しの罪によるのであって、12歳と姦通した罪はたしかに隠し通した。自分で手記を書いちゃうんだから台無しであるにしろ、ことロリータとの関係で言えば、彼は一方的に崇拝しており、殺すなんてとんでもない]

N: ドストエフスキーの『悪霊』にも主人公が少女を犯したのを告白している部分があったが、最近になって亀山郁夫が出した『悪霊』論でようやく、少女の側の欲望とかいった読み直しがされはじめた。『ロリータ』的なものが持つ予見性は50年代のアメリカでは理解されようがなかっただろう。

W: どうしてナボコフはこんな小説を書いたのか。それまでに出版した英語作品『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』『ベンドシニスター』はぜんぜん売れなかったから、“きわどいことを書いてひとやま当ててやろう”というヤマっ気はあったと思う。

W: 考えてみればロリータは、12歳から14歳にかけて日常的なドメスティック・バイオレンスを受けていたわけで、その後17歳で○○し、しかも△△。
そんな“壮絶な人生”のはずなのに、彼女はハンバートに再会したとき、自分の人生をめちゃくちゃにしたこの男のことを「屁とも思っていない」。
「もういちど一緒になろう」と訴えるハンバートにロリータは、“You're crazy.”と返す。これは非常に軽い言い方で、そこがすごい。運命に負けない、生き生きとしたロリータがいる。関西弁なら「あんたアホちゃう?」。訳では「頭おかしいんじゃないの」にした。
《「違う」と私は言った。「それはまったくの誤解だ。偶発的なディックとこんな穴倉を捨てて、私と共に暮らし、私と共に死に、すべて私と共にしてほしいんだ」(正確には憶えていない。)
「頭おかしいんじゃないの」と彼女は言って、信じられないという子供っぽい表情を作った。》p393


■“修正派の議論”、とか
[これがどんな問題かは、ぜひ『ロリータ』実物を読んでから「訳者あとがき」を読まれたい。きっと愕然とすると思う]

W: いまのところどちらの可能性もあるとは思う。しかしナボコフがどう考えていたかはわからない。ナボコフと切り離せないチェス・プロブレムであれば、答えはひとつに決まっている。ナボコフはこの問題にもひとつの答えを用意していたかも知れない。しかしながら、作者の正解を当てるのが読者の“正しい”読み方だろうか?

N: 作者の意図がどうであっても(答えがひとつであっても)、複数の可能性が見えてしまうところが読者の自由かも。

[実際にその作品を書いた生身の作者が考えていた答えはどうであれ、びっくりするような面白い読み方があればそれをできるだけたくさん知りたいと私は思う。どんなに突飛でも、筋の通った読み方が見つかれば、それは作品が潜在的に持っていた答えのひとつに付け加えられる(ここの順序は逆ではない)。そういう答えが多ければ多いほど豊かな作品のはずである。発見されないことには「潜在的に持っていた」こともわからない以上、「作品の持つ答え」とは「作品の持ちうる答え」(可能性)なのだから、いつでも「作者の用意した正解」の域を越えている――と、ここまでは常識の範疇。
しかしナボコフ作品に限っては、ナボコフ自身の意見を絶対的なものとして読まないと掴めない、と若島正はたびたび書いており、それなのに上の発言にもあるように、そこまで禁欲的になるのには疑問を感じているようでもある。変な言い方だが、これほどの読み手がそこで“揺れている”感じが好きで、私は若島正の書くものを読んでいるんだと思う。
話がそれた。「作品を豊かにする答え」を翻訳者・専門家とはいえ他人におねだりするのは、「一生かかってでも注を付けてくれ」と強要するのと同じ勝手なふるまいかもしれないと私は反省したのだった。だけど、面白い読みは共有財産だろうから、何かひねり出した人がいたら教えてほしい。結局おねだりである]


W: ナボコフが『ロリータ』に描いたアメリカは、現実のアメリカとはズレている。「シェル石油」とあるべきガソリンスタンドの名前がほんのちょっと変形されていたり。その意味で『ロリータ』のアメリカは、現実とは別のオリジナルなものだ。ナボコフはアメリカを「発明している」。
[ここ、ナボコフは母語でもない英語を操ってアメリカをどれくらい巧みに描いたか、みたいな質問に対する回答だったと思うのだが、なんかつながりを憶えていない。
勝手に推測して補足してみると、「『ロリータ』は、私と英語とのラブ・アフェアだ」なんてうそぶくナボコフであれ誰であれ、外界を「そのまま」写し取るなんてことはできない、言葉を使う以上、小説に描かれているのは現実とは別物として再創造されたアメリカだ、というようなこと――だろうか。郷愁の込められたロシアにしろ、現実のロシアではなく別世界としてナボコフは描いている、というのがナボコフ批評の大前提であるらしい。そういえばこんなメモを前にしていた]


W: なお、『ロリータ』巻末でナボコフが、これを「老いたヨーロッパが若いアメリカをたらし込む話」(またはその逆)として読まれるのを嫌がっているのは、言い逃れの意味もあったと思う。というのも、ヨーロッパ×アメリカという構図はまさしくヘンリー・ジェイムズのものだから、二番煎じと思われるのは嫌だっただろうから。
[ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916)は、幼時からアメリカとヨーロッパを行ったり来たりさせられた国際根無し草作家。『ねじの回転』のような心理的リアリズムだけでなく、欧米を対比した「国際状況小説」を書いたらしい。ちなみに、「視点」とか「語り手」とか小説の技法に無茶苦茶厳密で、書く英語もとんでもなく難しい人だったらしい]

W: ハンバートがアメリカを車で移動する場面のもとになっているのは、勤めていた大学が休みのあいだ、蝶を採集するためにモーテルを渡り歩いたナボコフの実体験である。
今回訳してみていちばん感動的だったのは、かつてロリータと暮らしたラムズデールをひとりで再訪したハンバートが、道路の溝に車のタイヤをとられ、そのあとじっと夜の町を眺める描写だった。そこには、ハンバートのみならずナボコフの、「「おれ、ロシア人なのに、どうしてこんなところまで来て、こんなもの見てるんだろう」みたいな気持もあらわれているように思う。
《雨はだいぶ前からあがっていた。あたたかい闇夜で、アパラチアのどこかだ。ときおり車が通り過ぎ、赤いテールライトが遠ざかり、白いヘッドライトが近づいてくるが、町は死んだようになっている。甘く熟して腐りかけのヨーロッパでは、気晴らしに外に出た市民たちが歩道で散歩したり笑ったりしている光景を見かけるけれども、ここではそんな人間は誰もいない。罪のない夜と恐ろしい考えを楽しむのは私一人しかいないのだ。縁石に置かれている針金でできた容器は、受け入れ可能なものについてひどくうるさかった。「掃除したゴミ。紙。ただし残飯お断り」。[…]
ネオンサインが我が心臓より二倍ゆっくりと瞬いていた。レストランの看板の輪郭になっている、大きなコーヒーポットが、一秒おきくらいに、エメラルド色の命に沸きあがり、またそれが消えるたびに、「おいしいお食事」と書かれたピンクの文字が後を引き継ぎ、それでもまだポットの形は隠れた影として見分けることができて、次のエメラルド色の復活まで目を楽しませてくれるのである。影絵芝居やったの。この秘かな町は〈魅惑の狩人〉からさほど離れていない。私はありえない過去に酔って、ふたたび涙を流していた。》pp397-8


 いったい誰がここまで読むのかわからないが、今回はこれでおしまい。



ロリータロリータ
(2005/11)
ウラジーミル ナボコフ

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