2006/09/07

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その42


[前回…]

 あれは3日前だったか4日前だったか、真夜中に駅を出て家まで帰る途中、シャッターの降りた商店街の通りがいつもより明るくなっていた。ふつうの街灯のほかに、あちこちの電柱にセットされた提灯の列が夜道を照らしている。ひとつひとつの提灯には、私には読めない旧字で「とてもめでたい」みたいな漢字が書かれてあり、数秒のあいだ何事かと考えて出た答えが「すわ、男児出産か」。信じて疑わなかった。地元の神社のお祭り期間なんだそうです。だから今日も明るかった。男児出産は次の日だった。

 ガルガンチュワ軍に敗れ、逃げ出したピクロコル王の末路は悲惨だった。逃げてる最中に馬がつまづく→癇癪を起こして馬を殺害→水車の驢馬を盗もうとして粉挽きたちに叩きのめされ半死半生→「着物も剥ぎ取られ、これでも着ろと一枚の襤褸外套を与えられた。」
《こうして哀れな癇癪持ちの落人は逃れて行った。そして、ポール・ユオーの村で、河を渡る時、己が不運を物語ったところが、年とった魔法遣いの女から、彼の王国は、飛びきたらざる鶴鶏が飛びきたる時節に、彼の手に戻るだろうと告げられた。それ以来、彼の消息はとんと判らない。》第49章 p222

 いちどは全ヨーロッパを手中に収めようとした野心家の最後である。しかし私が気になったのは、ここで何気なく書かれている、「[…]己が不運を物語ったところが、年とった魔法遣いの女から、[…]と告げられた」という箇所だった。何の断り書きもなく「魔法遣い」が登場。

 そりゃたしかにこの本は、主人公からして巨人だし、母親の耳から生れてくるし、無茶苦茶なエピソードがてんこもりの話ではある。しかし、それらの無茶苦茶が乗っけられている土台の部分(=作者が無茶苦茶を排して作ったはずの部分)までもが、いまの私たちからするとあちこちほころびているんじゃないかと思わずにはいられない。もっとも、当時の世間の常識からいって、「魔法遣い」の出てくる話がリアリズムの範疇にあったのか、当時としてもいかにもお話らしいお話の部類だったのか、それを判断する術が私にはない。後者ならちゃっちゃと読み飛ばせばよかった。ラブレーも罪な人だ。

 とりあえず「現代」といっていい時代を舞台にした作品を受け取るにあたっては、登場する「サラリーマン」や「主婦」を思い描くのに、私たちはほとんど想像力を使う必要がない。さらに、たとえばシェイクスピアを読むときも、あたまのなかで時代を過去へずらしていけば、「王」とか「羊飼い」といった登場人物をみちびき出すのはむずかしくない。今はいないにしても、昔はいたんだろうな、みたいな感じで、そういった人物を自然に受け取っている。しかし、「王」や「羊飼い」と同じレベルに「魔女」の存在を据えて読むには、時代をずらすだけでなく、ほんとは別のチューニングも変える必要があるはずだ。その調整を私たちは無意識に行なっていることにして、結果、「王」「羊飼い」と地続きに「魔女」を受け入れたつもりでいるように思う。しかし、そのチューニングはそんなに簡単に変えられるものではないのじゃないか、という気もたまにするのである。
 時代が変われば常識も変わるから、昔の本を読むときは片手に昔のものさしを持っておくのが大事だ、というのはあたり前の話だが、当時の人にとって「魔女」は架空の存在だったのか。魔女狩りがあったわけだし、「魔女」は本当にいる、ということになっていたのなら、上の引用箇所の受け取りかたは、私と当時の人ではぜんぜん違うものだろう。昔のものさしを持って読む、なんてことは、不可能な理想に思えてくる。実際、無理なんだろう。

 いやいや、途中から逆になってきた。ここで私が言いたかったのは、私には「魔女」は架空のものとしてしかとらえられず、それに比べれば「王」や「羊飼い」は実在のものとしてすんなり受け取っているが、じつはその「王」「羊飼い」も、ほんとは「魔女」と同じくらい遠いところにいるのではないか、ということだった。
 であれば、「王」「羊飼い」に対しても、あたまのなかに「魔女が実在のものであった世界」を作るのと同じくらいの想像力でもって、向き合うべきではないのか。そして、「サラリーマン」や「主婦」に対してさえも。

 さっぱり要領をえないが、書いているうちに最初の自分の考えを見失うのはよくあることだった。ガルガンチュワは味方の兵に褒賞を与え、それから敵軍の敗残兵を集めて「訓話」を行なう。

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