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2006/08/06

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その35


[前回…]

 早稲田松竹の2本立て、8/5(土)-11(金)のプログラム

 ・「ベルヴィル・ランデブー」
 ・「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」

 ということになっているので、8月の昼日中、学校のプールで泳いで帰ってきてからは何にもやることがなく、蝉のうるさい午後をひたすらぼんやりすごしていた小学生当時の自分を連れていってやりたいと思われたことだった。何様のつもりか。

 ドストエーフスキイ『未成年』は下巻の半分を越えた。もうちょっとで『ガルガンチュワ物語』に戻れる。ところで、このような部分を私はどんなふうに読めばいいのだろう。
《「いいかね、アルカージイ、ここに一つ奇妙なことがあるんだ。すべてのフランス人は、何よりもまずフランスに人らしくするときにおいてのみ、祖国フランスのみならず、全人類にも奉仕することができる。イギリス人もドイツ人もそれと同様なのだ。ただロシヤ人ばかりは、すでに現在においてさえ――つまり、いっさいの総じめがつけられるずっと前から、何よりもいちばんヨーロッパ人らしくなったときにのみ、最も多くロシヤ人となりうる素質を与えられたのだ。これこそ、われわれをあらゆる国民から区別する最も本質的な特徴で、この点、断然他に比類がないくらいだ」》下巻 p255

 130年前の外国人が小説の登場人物に語らせた一節である。当然よくわからない。わかるはずがない。いまのニッポンの国民性だってわかりかねるというのに。
 小説を読むにあたって私(たち)は、こういうことをわかろうと努力するべきなんだろうか。歴史を勉強して当時のおおまかな社会風俗をつかみ、そこにこういった思想を置いてみて、その意味をああでもないこうでもないと考えて答えを出さないことには、読んだことにならないんだろうか。これはけっこうな問題である。だってドストエフスキーの小説は、キリスト教にまつわるもろもろという、それこそ私からすごく“遠い”成分をたくさん含んでいる(らしい。何しろよくわからない)のだし。
 一方で、小説のなかに出てくる思想に立ちどまり、その意味に拘泥する必要はない、ほんとに、まったく、これっぽっちもない、という考え方もある。佐藤亜紀とか。そんなものはカッコでくくっておいて、その部分が小説全体の構成でどんな役割を担っているか、(内容ではなく)はたらきだけ見ればいいんだと。これはすがすがしい。自由になれる気がする。ただし、こちらはこちらで、やっぱりむずかしい。
 ひとまず私は、引用したような部分はアネクドートとして読むことにしている。
《「わたしはフランスへ行けばフランス人となり、ドイツへ行けばドイツ人となり、古代ギリシャ人と語るときはギリシャ人となる。しかもそれがために、わたしは何よりもまずロシヤ人なのだ。それがためにわたしはほんとうのロシヤ人なのだ。そして、何よりもまずロシヤのために奉仕している。なぜなら、わたしはロシヤの最も主なる思想を表現するからだ。わたしはこの思想の先駆者だ」》下巻 pp255-6

 もうひとつ、酔っ払いのお喋りとして読む、という手もある。

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