趣味は引用
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その20

[前回…]

 そうだった。先週の土曜日(6/3)は、ひさびさに飲み会へ出かけていったのだった。誰もはじめからそんなつもりでいたわけではなかろうに、結果的には、集まった8人の各人が各様におのれの抱える不自由をさらけ出す5時間になっていた。
 んで、終電の近づいた人々が帰ったあと、残ったひとりが「そういえば」と持ちだしたのが、「ガルガンチュワ」のサイズ問題だったので驚いた。何度も書いているように、ガルガンチュワは巨人族の王子である。しかし、たとえば「その11」に出てくる侍女たち、彼女らもまた巨人なのだろうか、それとも普通の人間なのだろうかというご質問。

「乾喉国」の王グラングゥジエが巨人であること、である以上、王妃ガルガメルも巨人であることは、まちがいない。けれども、ガルガメルの出産に先立って宴会に集まった“町人・村人”や、“産婆”までが巨人とは思えない「その5」。巨人のまわりを普通サイズの人間がわらわら取り囲んでいる、という図が妥当だろう。巨人国近辺がみんな巨人村・巨人町ではないはずである。
 では“隣国の城主”はどうかといえば、グラングゥジエや幼いガルガンチュワと対等に喋っていることから、ここはどうしても彼らは巨人と同じサイズと考えなければ不自然な気がする「その12」
 そうすると、“お供の者”はどうなのか。いまガルガンチュワと一緒にパリにいて、これからも登場しそうなポノクラートやユーデモンのサイズはどうかと考えてみると、ガルガンチュワの乗って行った馬ばかりが「巨大だった」と書かれているのだから、お供は巨人ではない気がする「その16」。ここでも、王子であるひとりの巨人を中心に、その世話を焼くため普通サイズの人間がたくさん群れている、という図でいいと思う。
 しかし一方、あの侍女たちは、相手のガルガンチュワがいくら幼児期だったからといって、やっていることや話題にしていることからすれば、少なくともガルガンチュワを「普通よりはでかい赤ん坊」として扱える大きさでなければ釣りあわない。
 つらつら考えてみるに、結論はこうだ。

 周囲の人たちは、その時々の都合に合わせて、大きかったり小さかったりする

 そうとしか考えられないのだし、おそらく、同じ人間でも場合によってサイズは変わる。そして何より、これをいちばん先に書くべきだった気もするが、この『ガルガンチュワ物語』の「註」の部分、ごく最初のところには、こんなただし書きがついていたのだった。
《これらの巨人たち[※グラングゥジエ、ガルガンチュワ、未登場のパンタグリュエルのこと]の体軀の偉大さは、時々作者によって忘却されることがある。ラブレーが中世伝来の巨人伝説を用いて面白可笑しく物語を進める場合には、巨人たちは、巨人として描かれて、その驚天動地な振舞いに、我々は抱腹絶倒させられるが、作者が特定の主張を籠めた思想を展開し、少しも巨人の体軀を必要とせぬ場合には、いつの間にか巨人は常人並みの身丈に縮められる。全五巻の物語中、最初の二巻、即ち『第一之書ガルガンチュワ物語』及び『第二之書パンタグリュエル物語』よりも『第三之書』『第四之書』『第五之書』において、巨人王の巨人的描写は稀薄となっている。P262

 サイズ問題は、周囲の者たちだけの問題ではなかったのである。
 太字にした部分を読んで私はちょっと真剣に笑ってしまい、それと同時に厳粛な気持にもなったのだが(訳者が意図したかどうかは関係なく、私はこれを生真面目ギャグと呼びたい)、このような16世紀の物語を読むにあたっては、現代の小説に向かうのとはちがった態度が要求されるだろう。それがどんなものかと考えるつもりはしかし、あまりない。なんとなれば、読み続けていくうちに、おのずと私自身が作品に合わせて変わっていくんじゃないかと予想しているからで、そうでなかったら、どこにこのスローペースの意味があるだろう。

 ところで土曜日は、飲み会といいながら、私はまったくアルコールを摂取していない。最近はいつもそうで、はじめの1杯だけはお酒、というような言い訳めいた真似もしなくなった。おかげで飲み会の最中にひとり不機嫌になるほどの頭痛で苦しむこともなく、潮に流されるように眠り込んでしまうこともなく、始終調子がよかった。きっといいことである。問題は、そんな私の「ガルガンチュワとパンタグリュエル」感想は、作中で頻出するどんちゃん騒ぎに反応する部分を致命的に欠くのではないかということだった。ああ。

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック