趣味は引用
宮沢章夫『『資本論』も読む』(2005)
『資本論』も読む
WAVE出版

 ふつう、読んだ本の感想や書評の類は、「読んだ」本の感想や書評なので、最後まで読んでから書かれることになっている。当たり前といえば当たり前。文字数も書き方も自由なウェブ上の書評なんかでは、たとえば小説をある部分まで読み進めた時点で残りの展開を推理して、それを書き留めたあと実際に読み、答え合わせと考察を続ける体裁のものもたまに見かけるけれども、それだってたいていは、そのある部分までを「読んで」から、その「まとめ」として書いているのには変わりがない。その意味ではみんな、すごくきちんとしている。
 おととい買ってきたこの本を私はまだ途中までしか読んでいないが、むしろ読み終えてしまう前に何か書いておかないともったいないと思ったのは、これがマルクスの『資本論』を読もうとする劇作家の現在進行的読書ノートであるからだ。

 的確な目と短い物言いで感想をまとめるのは一個のすぐれた技術だから、うらやましいし尊敬に値する。それは間違いない。しかし、本を読むのとその「まとめ」を読むのがぜんぜん別のことである以上に、「読む」のと「読み終えたものをまとめる」のは、まるでちがった作業であるだろう。それなら、本を「読んだ」結果ではなく、「読んでいる」状態を記述した文章だってあってもいいはずだ。
 もちろん、ものすごく無茶な要求である。分量だってどんどん増えていくだろうし、どれだけ膨大になったところで、「読んでいる」過程であたまに浮かんでは消えるものごとを再現するのに、文章はあまりに不十分な器でしかない。
 ほれぼれするような要領のよさで、週刊誌の1ページに収まる分量の書評を単行本4冊分も書き続けた高橋源一郎は、その実、何度も何度もこんなことを言う人でもあった。
《わたしの考えでは、重要なことは読書の最中に起こってしまい、結果として書かれたものはほとんどその脱け殻だけなのである。だから書評であれ、文芸時評であれ、つまらないに決まっている。どうしても書かねばならないなら、少なくとも対象となっているその本の二倍の長さが必要なのだ。》『文学じゃないかもしれない症候群』

 読みながら書き、書きながら読んで、「読んでいるときの感じ」をつかまえようとしながらも、自分の手で書きつけられた言葉は「読んでいるときの感じ」の何十分の一にしかならない、もう絶対にそういうものであるという現実にうんざりし、それでもまた読んで書くことを続ける、そういう人たちがたしかにいる。宮沢章夫は、そんな一群に属する読み手であり書き手である。
 ということで、ここまでは余談であり、余談ではない。

『『資本論』も読む』は、雑誌に連載された『資本論』の読書ノートと、本人のウェブ日記から当時の記述を抜き出して構成されたドキュメントである。
 宮沢章夫が「高校生の頃から何度も読もうと試み、そのたびに挫折して“読めない歴史”を更新してきた古典」として『資本論』をあげていたのは他のエッセイでも見たことがあるが、毎月の連載という外からの強制力によって、この人はついに『資本論』を、「第一部 資本の生産過程」の「第一篇 商品と貨幣」の「第一章 商品」から読み進めていく。いやその前に、「序文」にさえつまづいてみせる。
《序文は容易く読めるのか。たしかにさほど困難は感じられないが、いきなりこんなふうに書かれても人は困るのではないか。
「イギリスの工業労働者や農業労働者の状態を見てドイツの読者がパリサイ人のように顔をしかめたり」
 いったい、その「パリサイ人」とはどこのどいつだ。マタイ伝の一節に次のような記述がある。
「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた」
 これを読んで、イエスが食卓に着いたときパリサイ人のやつが顔をしかめなければいいと私は思った。
 だがそんなことはどうでもいい。》p15

 いいのかこれで。
 しかしこの調子は基本的に変わらない。頑固に進む。頑固に立ちどまる。
《たまたま「リンネルの価値」は上着にすると「1着」で、ほかの商品と比べたとき「価値」はどう変化するのか気になるが、さらに驚かなくてはいけないのは、たとえ相手が、「コーヒー」や「鉄」「無数の違った所有者のものである無数の違った商品」だとしても変わらないという。
「つねに同じ大きさのものである」
 リンネルは不変である。
 私はここにリンネルの恐ろしさを見た。なにしろやつは、「世界市民」なのだしよほどのやつだろうと思ってはいたが、どんな状況下でも「同じ大きさ」だとは想像もしていなかった。》p69

 だがこの本が、まさにこの調子でなくてはならない、こうでなくては書く意味がないものであることは、先に読んでしまった「あとがき」のなかで語られている。それはほとんど、感動的な言葉である。
《「読む」という行為のなかで、なにか自身のなかに「教養」とはべつの、「気づき」のようなものがあってこその読書ではないか。それはことによったら、『論語』でもよかったと考えられる。実際、ある出版社から『論語』を読みませんかという打診を受けたこともあった。あるいは、プルーストの『失われた時を求めて』ではどうだったか。中里介山の『大菩薩峠』も長大な書物だし、そう考えれば読むべきものは無数にあり、そして人は、それらをぜんぶ網羅して読むには人生があまりに短いことを知ることになる。だからこそ、『資本論』を読みたかった。せめて『資本論』を読んでから死にたかった。》「あとがき」

 だからこの本は『資本論』の注釈ではないし、正確を期した「まとめ」でもない。解説本とは対極にある、と何度もことわられている。全体の進みゆきの見取り図として目次を開けば、当然ながらそこには、各章のサブタイトルが並んでいる。
“むさぼり食う主人は「商品」は作らない”第四回)とか、“ともかくようやく「貨幣」の登場である”(第十四回)、あるいは“「市場」という名のアウェーで闘う”(第二十三回)といった章題は、その題の下に書かれた文章を通して『資本論』そのものの記述へと興味を抱かせるが、印象的なのは、ひたすら「わからない」と繰り返す一途な情熱がにじんでいるものだ。

“わかる瞬間がわかりたい”(第六回)

“「わからない」を「わからない」として味わう”(第十五回)

 苦闘だ。ものすごく苦しんでいる。そして章題は開き直る。

“わからないと格闘する作家の姿を見てほしい”(第十六回)

 しかしやがて、光明の差す瞬間が訪れるのだ。

“「わかってくるという快楽」が心地よい”(第二十二回)

“『資本論』を読める幸福”(第二十五回)

 かと思えば、こうなってしまう。

“私は、砂漠を歩いているのではないか”(第二十九回)

 それは遅々とした歩みだ。『資本論』が難解だからというだけではない。演劇の稽古をして、他の連載も〆切が迫るなか、大学でも教えなければならない。そんな日常がしばしば読書を妨げる(という事情も書き込まれる)。そしてやっぱり、『資本論』は激烈に難解である。
《読みながら次のような一節をノートに書き写したとしても、理解してそうしたとはけっして言えない。
 「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっているということを明らかに示しているのである」》p78

 それでも、うしろの方のページを覗いてみるに、2000年の終わりから丸3年におよぶこの挑戦を通して、宮沢章夫は全部で9巻になる『資本論』(大月書店版)の、第1巻を読了したようなのである。
 ――って、第1巻かよ。そんなことを言ってはいけない。ここにあるのは、「このペースだと全巻読了まで30年かかる」と計算して溜息をつきながらも読むことをやめないひとりの人間が、『資本論』のいちいちに「すごい」と感心し、「わからない」と悩んでは「こういうことか」と考えて、「やはりわからない」とつぶやきつつ、ときにマルクスの文章に「なまめかしさ」まで感じてしまう姿であり、効率という点からいえば明らかにちょっとどうかしてしまっている人間の姿である。

 ずっと上の方で「読み終えてしまう前に何か書いておかないともったいないと思った」とか言っておきながら、結局私は『『資本論』も読む』の本文を読み進める過程について何も書いていない。ちょっと引用して紹介しただけだった。これでは意味がない。私はいっそう、宮沢章夫のような「読む人」に憧れる。読んでいると、自分も無性に本が読みたくなる、これはそういう本である。そもそも、冒頭にこうあるのだ。
《いま、『資本論』を読むことはあきらかに野望である。
 だが、困ったことに、『資本論』を読むことどこに約束の土地を求めていいかよくわからない時代だ。その果てになにがあるか。ないのかもしれない。だが、だからこその野望ではないか。これこそが「純粋野望」と呼ぶべきものであり、こんなに美しい読書があるだろうか。》
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