趣味は引用
「文藝 特集:高橋源一郎」を発見する
内田 高橋さんって村上春樹の話をするといつも話題を変えたがるから、あまり好きじゃないのかと思ってた(笑)。そうか、そういう背景があったのか。》

 ひさしぶりに本屋に行ったら、「文藝 2006年夏季号 特集:高橋源一郎」(河出書房新社)を見つけた。買って帰ってきてから、発売は1ヶ月も前だったことを知って驚く。じゃあもう、みんな読んでるんじゃないかと不安を覚えつつ、でも、メモはする。
文藝 2006夏
 カラー写真つきで巻頭にあるのが、源一郎の第一子(33歳になるらしい)との父娘対談。いきなりおなかいっぱい。「自作解題」「年譜」は、以前、別のところで発表されたやつに手を加えただけなのであんまり。データとしては2年半前の「現代詩手帖」特集があるからいいのか。石川忠司、佐々木敦による評論は短いながらけっこう読ませる。もっとスペースを。
 特集中、最も難解に見えるのは、17歳時の源一郎が灘校の生徒会誌に発表したという論文、「民主主義中の暴力」の再録。なにしろまだ読めないというか、読む気になれない。
 今回の特集のために書き下ろされた源一郎の短篇、あと青木淳悟のトリビュート短篇はこれから読みます。

 源一郎×柴田元幸対談は、ドナルド・バーセルミの話からはじまり、“自分ではいわゆるふつうの小説を書かない(書けない)高橋さんが、他人の書いたふつうの小説は楽しく読んでいるのはどういうわけか”という問いが続いたりして面白い。ものすごい勢いで説得されていくような柴田元幸は、その実、「わが意をえたり」という部分も相当あったと思われる。
柴田 「この作家は書くべきこと、あるいは言いたいことがないんじゃないか」という批判があるじゃないですか。それは、いまのお話を伺っていると、言いたいことがあるというほうがおかしいんじゃないかという気がしてくるんですけれども。
高橋 おかしいですよね(笑)。》

 んで、ミーハー的にもっと盛り上がるのが源一郎×内田樹対談で、源一郎から村上春樹についての証言を引き出すところ。内田樹は源一郎がデビューした当時からのコアなファンであり、熱烈な春樹支持者でもある(当人のサイトから、これとかこれとか。ほかにもたくさんあった気がする)。一方の源一郎は、あれほどたくさん書評を書きながら、春樹の小説にはほんの数回しか言及してこなかった。いままでこの点に突っ込む人がいなかったとはとても考えられないが、いたけどかわされたのか。そんなことを気にするほどみんなはミーハーじゃない、というのなら納得するけれども。
 源一郎は1980年の「群像」新人賞に「すばらしい日本の戦争」を送るも落選、翌年に「さようなら、ギャングたち」でデビューするわけだが、「すばらしい~」を書き出す直前、1979年に立ち読みした「群像」で、その年の新人賞として掲載されていた村上春樹「風の歌を聴け」の1ページ目を読み、自分が《それを読んで、世界で一番衝撃を受けた人間かもしれない》とまで言っている。「ヤバイ」と思って、そこで読むのをやめたとか。
 (「すばらしい~」は、のちの『ジョン・レノン対火星人』の原型)
高橋 […]僕はその前に十年分読んでいて新しい作家なんか誰もいなかったので安心してたんです。それが一ページ目を読んで「……いたよ」って(笑)。
[…]そのちょっと前に『さようなら、ギャングたち』の全体像も浮かんでいて、「しめしめ、これで世界は俺のものだ」っていう感じだったんです。ところが一ページで、「あ、この人はわかってるな」と思った。同じ学年かと思ったら少し上だったんだよね。「僕より先にやるなよ。まずい、やめてくれよ」って思った。僕は何十年小説を読んでてそういう思いは一回だけですけどね。
[…]
内田 でも一ページ目って、まだ全然話は始まってないでしょう。
高橋 まだ全然。タイトルがあって冒頭の章があって……。
内田 そう、すごくスタイリッシュな冒頭の章がある(笑)。
高橋 でも、あとは読まなくても何が書いてあるかわかると思った。わかるんだよね。やろうとしていることが。
[…]本当にそのとき有隣堂で一ページ目を見てしばし立ったまま考えてた。「この小説の価値がわかるのはたぶん僕だけだろう」とか、「この人はこれから何十年も書いていくんだろう」とか。「近いところにいるけど方向が全然反対なんだよね」とかいろいろなことを考えながら、でも「邪魔だな」って思いました。》

 なにしろ源一郎は、“デビュー前の10年間は失語症状態で、読むことも書くことも一切やめていた”という伝説を作っていた。「かなり読んでいたし、書いてもいた」というのはここ数年での告白である。だからこのエピソードもどこまで本当なのかわからないにせよ、こんなに素直な感じで話すとは思わなかった。これが、今日の冒頭に引用した“春樹について語りたがらなかった背景”。

 では逆に、村上春樹は高橋源一郎のことをどう捉えていたか。これはぜんぜんわからない。源一郎だけでなく、同時代の作家については「読んでいないから」といってまったく発言していないと思う。春樹の書いたもののなかで源一郎の名前が出てくるのは、うちにある本では1冊だけ、レイモンド・カーヴァーの訳書『ぼくが電話をかけている場所』(中公文庫)の「訳者あとがき」、ラストの一言しかない。
《ここに訳出した以外にもカーヴァーの短篇にはかなり面白いものが多い。機会があればまた訳してみたいと思う。最後になったがテキストをお貸し頂いた志村正雄氏、高橋源一郎氏、青山南氏に深く感謝するものである。》

 これだけ。ここで3氏からテキストを受け取って春樹のところに持っていったのは、たぶん安原顯なんだろうなと想像される。親本のハードカバーは1983年刊。ハードカバーも文庫も、のちに春樹が『レイモンド・カーヴァー全集』を出すとき絶版になった。
 内田樹が源一郎に突っ込んだように、村上春樹に突っ込める人がもしいるとしたら、それは柴田元幸をおいてほかにいない気がする。それはまたずいぶん閉じた世界じゃないか、って、勝手に考えている私の世界が狭いだけなんだが。そしてもちろん、こういったエピソードの数かずは、いくら集めたところで、当人たちの作品を読むにあたってはおよそまったく必要のないはずのものである。私が好きなのは本当に小説なんだろうか。
 しかしこれだけははっきりしている。内田×高橋×柴田×村上座談会なんてものが実現したら、何を放り出しても私は読む。でも、それこそみんな読むよな。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック