趣味は引用
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その9

[前回…]

 おとといの夜だったか、『ガルガンチュワ』はおいといてメルヴィル『白鯨』をめくっているところに友達Bから電話(Skype)があって、結局5時間喋っていた。終わって3分後には寝ていた。
 ふだんの私は、飲み会でもなんでも、人との会話の8割は他人の噂話に費している気がするが、このブログで何度か書いたことのある友達Bとは高校2年のときからの付き合いながら、いまや共通の知人はひとりもいないので噂話の題材もなく、無内容にもほどがあるその場の思いつきを互いにだらだら話しているうちにそれだけの時間がすぎた。おそるべきはSkype。まあ、他人の噂話だって、話している最中は自分たちが大事なことを喋っていると錯覚(まちがいなく錯覚)することもあるにせよ、内容があるんだかどうだかわからないという点では、ただの思いつきにひけをとらない。
 ここで内容/無内容という言い方をするならば、『白鯨』の語り口にはほとんど内容しかない――と、強引に入ってみた。ぜんぶで135章あるうちの42章めが「白い鯨の白さについて」になる。
《白鯨に関して特におれが戦慄を覚えるのは、その鯨が白いということ。》

 語り手であるイシュメールという男は、こう言って「白」について語り出す。その態度は『ガルガンチュワ』の語り手よりもうちょっと真面目で、目的があるようにも見えるのだが、古今のさまざまな資料をひっくり返して例を集めてくるやり方は同じである。
《白色が高貴さの観念と結びつくらしいということは人類そのものにも応用され、白人は、肌いろ浅黒い他人種すべての上に立つ理想的な支配権を付与され、加うるに、白色は歓びを表す色とされた。例えば、古代ローマでは、白い石が祝日を表した。また、この白色は、人間の共感に訴える象徴としても崇高なる感動のしるしとして用いられ、花嫁の純潔や、老齢の優しさは白で表される。》

「そこから来ましたか」という感じだが、すごいと思うのは、この語り手、白という色には何かこちらを戦慄させるものがある、という思いつきから発想しながら、それをたとえば、「白というのは、あるべき色がない状態なのでこちらの不安をあおる」のような安易な抽象論にはとびつかず、まず、あくまで白いものの具体例を列挙して、その個々に対し自分が覚える感想をぐりぐり検証していく作業から、“白の本質”をえぐりだそうとするところだ。
「正義」とか「崇高さ」の象徴として使われてきた白色は、こちらに「意味不明の恐怖」を圧しつけてくる色でもある。北極の白熊、熱帯の白鮫がどこか不気味なのはなぜなのか。もちろん、誰もが納得できる正解としての“本質”なるものは出てこない。人間の白子を見たときに起こる反発は奇形を見た場合のより大きいとか、死者が与えるインパクトでいちばん大きいのは顔色の白さであるとか、あれも白い、これも白い、と続けていったあとで語り手の着地する見解は、意外と普通である。
《白とは、つまるところ色の一つではなく、色の欠如が目に見えているありようではないのか。と同時にあらゆる色があつまり凝結したありようではないのか。だから、白一色の大雪原は意味に溢れ、しかし同時に、ものいわぬ一枚のただの空白なのである。そこには色がないのにあらゆる色がある。これは一個の無神論、我々が身を退くところのものである。》

 けれども、読むべきは、ここに至るまでの具体例の列挙と、いちいちの偏執さかげんのすごみであるだろう。白という一色に「崇高」と「不気味」の両極を見てとって、束ねることなくその両方を追い続ける、そんな語りのたくましさが『白鯨』の肝だ。ひとつの解答をはなから相手にせず、ごちゃごちゃのなかで思索を進める、というところに、語り手の(そして作者の)あたまの強靭さがある。それを健全さとまでは言いきれないにしても。なにしろそれは、どう見ても“ちょっとどうかしている”のだから。
 で、そういった思考法それじたいさえも、じつは作中で述べられている。
《鯨の目の配されようといえば、何立方フィートにも達する巨大な頭によって、いわば見事に分断されており、目と目の間に大きな山岳が聳えているようなもの、目は山岳に隔てられた二つの湖なのである。その結果、当然のこととして、個々の独立した器官が生み出す映像は完璧にかけ離れたものとならざるをえなくなる。[…]かれの目は二つながら個々に同時に機能している。これは間違いのないところだ。となると、かれの脳は人間のそれよりも何層倍か解析力にすぐれ、総合力にすぐれ、微妙に反応するということだろうか。その結果、かれは片側に見る光景と、その反対側に見る光景と、これら明確に二つのものである光景を同時に混乱なく見つめることが出来るということなのだろうか。》74章

 自己言及というやり方にありがちな、線の細い秀才タイプの印象はここにはない。それはやはり、鯨というどこまでも具体的な事物になぞらえて話が進められているからで、こうやって鯨のことを語り続けているうちに、『白鯨』は鯨に似てくる。これはたいへんなことだと思う。

 いま『白鯨』を読むとしたら、たぶん本屋には4、5種類の翻訳が置いてあるはずだが、個人的には講談社文芸文庫版(千石英世訳)が好きなのでおすすめしたい。上の引用はみんなそこから引いた。文芸文庫は値段が高いけど、これよりもあとに出た岩波文庫版(八木敏雄訳)なんかと読み比べると、こちらは明らかに訳文が過剰になっていて、そのぶん楽しさ倍増である。私が言っても信用がないだろうから、権威の意見を貼ってみる。

 「『白鯨』新訳がすごい!」
 http://www.bk1.jp/review/0000013403

 この書評、ずいぶん前に読んだので、いまあらためてbk1へ探しにいったら、ついでにいろいろ見つかった(→柴田元幸書評一覧)。柴田元幸が岸本佐知子『気になる部分』の評を書いていたのを私ははじめて知った(→その1→その2)。
《この人は、もっとも変であるときにもっとも明晰なのだ》

 なんて的確なんだろう。『気になる部分』は、今月、白水uブックスに入るから、みんな読めばいい。あの本を必要としている人はきっと少なくない。

 今日の分は、友達Bに始まって、岸本佐知子に終わった。『ガルガンチュワ』が出てこなかった。こんなことでいいのかと思わなくもないものの、こんなことしか書けないんだから仕方がない気もする。ラブレーとメルヴィル(なかんずく『白鯨』)は、“百科全書派”として括られることもあるみたいだが、そんな、ジャンルとしての「小説」も成立していなかったころの古典と19世紀アメリカ小説を並べて同時に見ていくのは私には無理だ。私は鯨じゃない。





白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)
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白鯨―モービィ・ディック〈下〉 (講談社文芸文庫)白鯨―モービィ・ディック〈下〉 (講談社文芸文庫)
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気になる部分 (白水uブックス)気になる部分 (白水uブックス)
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