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『エーコの文学講義』続き

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 本題。
 全6回の講義の第5回で、エーコは、1982年のフォークランド紛争に際し、アルゼンチンの新聞が示した反応の記録を追う。

 新聞は「イギリスの原潜が近海に接近中」だとすっぱ抜くが、イギリス側はこれを風説としてしりぞける。翌日、新聞が原潜の詳細と人員数を掲載し、噂が徐々に具体的な情報をまとったニュースとなっても、イギリスは曖昧に明言を避ける。やがてアルゼンチン側には「沿岸で艦影が確認された」との報が入り、ヨーロッパのメディアも英軍の配備状況と情報隠匿についてさまざまな報道を行うようになる。
 ところが、最初のスクープから約1ヶ月が過ぎ、誰もが原潜の存在を信じて疑わなくなったころ明らかにされたのは、この間、当の原潜が一度もスコットランドを離れていなかったという事実だった。
 噂がひとり歩きしてどんどん成長していったこの物語を受け取る者すべてにとって、しかしそれでも、「やってくる原潜」は確かに存在していた。書かれたものは存在するのである。
《この話は、存在命題のもつ力を示しています。固有名詞や定義された描写を含む言説はどれも、そのなかであらかじめ告げられているなにかをもとに、受け手(読者もしくは聴衆)が実体の存在を疑問の余地のないものとみなすことを想定しているのです。》

《ひとたびマスメディアの言説によって、言説のなかに位置づけられると、潜水艦はそこに存在したのです。[…] 例の「イエロー・サブマリン」はマスメディアによって措定されたわけですが、措定されたとたん、だれもがその存在を疑う余地のないものとして受け止めたのでした。》pp142-4

「物語をつくる意志」を『フーコーの振り子』の中心としたとき、とうとうテンプル騎士団が本当に登場してしまう展開を、自分は支持する。こうでなくちゃ、と思う。しかし一方で、物語を編んだ主人公たちと同じレベルに騎士団が現れてしまうのは、「物語」と「その相対化」において、前者に力を入れすぎたようにも思う。
 完成されたエーコの物語とは別に妄言を続けると、騎士団の存在をあくまで可能性にとどめ、つまりは騎士団を主人公とは別の世界に属させて、なお小説としての結構を保たせるやりかたもあったのではないかと考えたくなる。

 というのも、“書かれたものは存在してしまう"原理を用い、テンプル騎士団並みに不可思議な秘密組織を作中に導き入れて、しかもその実在を最後まで宙吊りにしおおせた小説を、自分は知っているからだ。
 その作者の名はトマス・ピンチョン、問題の作品は『競売ナンバー49の叫び』という中篇である。
…続き
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