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2006/05/04

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その8


[前回…]
《[…]一つ諸君にお知らせ申して置くことは、ガルガンチュワの股袋[ブラゲット]は、長さも実に長く、太さも実に太いが、また、実にたっぷりと中身が詰められ、実に豊かなものが納められていたから、山といる有象無象の色男どもの見かけ倒しの股袋などとは、全く類を同じゅうするものではないということだが、こいつらのは、御婦人方にはまことにお気の毒ながら、なかは、がばがばなだけである。》p56

 「がばがば」ときたか。いや、股袋のことはもういいのだった。私としては、さっさと物語の進展を追いたいのだけれども、語り手はガルガンチュワの衣装から装身具まで、大胆かつ細々と説明を続け、コメントをつけていく。あまつさえ、突然読者に向かって熱弁をふるいだす。テーマは当色について。物語はしばらく進みそうにない。
 「当色(とうじき)とは「位階に相当する服色」とのことだが、貴族たちは、それぞれ好きな色を選んで自分の「当色」としたらしい(註より)。父親がガルガンチュワのために選んだ当色はだった。
《彼の考えでは、白い色は、歓喜、快楽、福楽、享楽を意味し、青い色は、高貴至上なるものを表していたからである。》第9章 p59

 ところが、当時、色の解釈で優勢なのは「白=真心、青=剛毅」。その典拠は『色彩之賦』[ブラゾン・デ・クウルール]なる書物だったらしく、語り手は、この本を徹底的に罵倒する。
(その罵倒のなかで、「糞ひる奴の尻はいつも糞で一杯」という格言が引かれるのだが、正直、何が言いたいのかいまひとつわからない)

 罵倒の勢いのまま、第一〇章は「白い色と青い色とは何を意味するか」と題されて、語り手の主張が長々と述べられる。そこには、聖書やら古代の歴史やらからの引用がずらずらと並び、話は確信犯的に脱線していく。
《もし諸君が、何故に自然は、我々をして白い色を歓喜愉悦と解さしめるのであるかと訊ねられるならば、類似性と相似性との故に、しかく相成ると御返答申上げよう。相似類似する理由はというに、――『疑義集』[プロプレーマ]におけるアリストテレスの意見ならびに光学理論諸家[ペルペクチフ]の説によると、白い色は、明らかに視力を分解して、視覚を外界へ分離分散せしめるのと同じく、(そして、このことは、諸君が雪に蔽われた山を越される時に経験されるはずであり、諸君は目がよく見えなくなったと訴えられるのもその結果であるが、クセノポンも、こうした現象が部下の者の身の上に起ったと記しているし、ガレノスも、その『人体各部性能論』[デ・ウズ・パルテイウム・コルポリス・フマ]第十巻で詳細にこれを論じている通りである。)――これと同じく、我々の心も、この世のものとも思われぬ歓喜を感ずる場合には、内部に分散を生じ、生命力の明らかな分解を蒙るにいたるからであるが、この分解がいよいよ激化すれば、心は自らを支えるものを喪失するにいたるのであり、従って、度を越えた歓喜のために生命が消滅せしめられることもあるわけだが[…]》pp67-8

 章題が「白い色と青い色とは何を意味するか」であるくせに、全体を通して青い色には触れない、といった小技も利いているが、ここでどうしたって連想されるのは、ラブレーから300年あとのアメリカ人作家、メルヴィル『白鯨』(1851)である。

『白鯨』は「ガルガンチュワとパンタグリュエル」よりさらに有名だから、“モービー・ディック”なる白い鯨に片足を喰われた“エイハブ船長”が復讐のため捕鯨船を駆って追跡する、みたいなあらすじはよく知られていると思う。けれども実物の印象はだいぶ変わっていて、語り手はエイハブの捕鯨船に雇われた一船員であり、この男が、鯨のこと、捕鯨のこと、この世界のことを、ひたすら語りまくる。雑学と世界観と思想が虚実織り交ぜあふれかえり、上のあらすじは、そういったあれやこれやを乗っけて走らせるためのレールに過ぎなかったことがおのずとわかる。手法としての脱線。あんなに面白い小説もなかなかない。で、そんな『白鯨』の真ん中あたりに「白い鯨の白さについて」という章があって、そこではやはり、「白」という色について猛烈なお喋りが展開されるのだった。日付が変わりそうなのでまた明日。

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