趣味は引用
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その6

[前回…]

《子供は、生れるやいなや、世間なみの赤ん坊のように「おぎゃー、おぎゃー」とは泣かずに、大音声を張りあげて「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫び出し、あらゆる人々に一杯飲めと言わんばかりであったから、ビュースやヴィヴァレー地方全土一帯からも、この声は聞き取れたほどだった。》第6章 p50

 こんな内容を語りつつ、さすがに語り手も不安になったのか、こちらの顔色をうかがうような様子で弁解を続けている。
《諸君はきっと、このような奇怪な生れ方をほんとうにはなさるまいと思う。よしお信じ下さらなくとも、私は気にかけはいたさぬが、性[さがら]善き人、分別ある人ならば、他人の言ったことや書物で読んだことは、常にこれを信用するのが当たり前である。[(…)諸君はどうしてこれがお信じにならないのか? なぜかと申すに、(と諸君は仰っしゃるだろう、)確証がないから、と。敢て申上げるが、確証がないからこそ、諸君は完全にお信じにならねばならぬのだ。(…)]》

《蓋し、申上げて置くが、神には不可能ということが全くない以上、もし神がそうとお望みになりさえすれば、今後御婦人方は、このように耳から子供を生むことにもなろうというものだ。》

 弁解なのに、途中からえらそうだった。この語り手が誰なのかはいまのところわかっていない。
 生れると同時に「のみたーい!」と繰り返したこの赤ん坊の声を聞いて、父親グラングゥジェは「お前の喉はでっかいわい!」(Que grantd tu as!)と言う。ほかに言うことがあるだろうという気もするが、ここから、ガルガンチュワ(Gargantua)という名前が付けられた。両親は、嬰児をあやすためにまず「ぐびりぐびり葡萄酒を飲ませ」、それから「善いキリスト信者の習慣通りに」洗礼を受けさせる。もう何がなにやら。

 ところで、“葡萄酒”という言葉になにかしらの感興を覚える人もいるのではないだろうか。かくいう私がそうで、子供の頃、本のなかの登場人物が“葡萄酒”を飲んだりした日には、その甘いような酸っぱいような味を想像して夢見心地になった(登場人物たちも、きまって“葡萄酒”はごくごくと大量に飲み干すのだった、これが)。私はそれをすっかり架空の飲み物、本のなかにだけ出てくるお酒だと思い込み、うらやましい気持で手近にあったファンタグレープなんかを飲んでいた。関係ないがグレープで思い出した。アイスのパナップといえば断然グレープ味である。最近のパナップが「進化」と称してソースを変えているのは憂慮すべき退廃ではあるまいか。早晩たしかめてみなくてはならないだろう。ほんとに関係がなかった。

 ともあれ、いまや私も大人である。“葡萄酒”が「ワイン」であって、自分にはちっともおいしく飲めないものであることもさんざん思い知った。なんか苦くて喉を通らない。頭が痛くなる。とてもごくごくとは飲めない。
(その点、“ショウガ焼きクッキー”はえらかった。“葡萄酒”と同じく本の世界に属するものとばかり思っていた食物でありながら、現実の「ジンジャーブレッド」は私の期待を裏切らなかったのである)
 けれども、そのような悲しい別れを経てもなお、“葡萄酒”はあくまで“葡萄酒”として、私の記憶のなかにある。思うに、それは「ワイン」とは別の飲み物なのだ。“葡萄酒”は、1本が何千円・何万円とかいった値段とか、ソムリエの変な身振りと変な髪型とか、あるいはぐっと下がって高田馬場の飲み屋で悪酔い、とかとは関係のない世界で、陽気に飲み干されるものである。その明るい世界を「空想のヨーロッパ」といっても大きく外れてはいないんじゃないだろうか。私はこの『ガルガンチュワ』を、“葡萄酒の出てくるお話”である点を忘れずに読んでいきたいと思う。

 1年と10ヵ月後。「一万七千九百十三頭」の牝牛から乳を飲んで育ったガルガンチュワは、牛車に乗せられて外へ引き出されるようになった。
《その姿は見るだに楽しげだった。何しろ、この子供は、可愛い顔をしていて、頤[あご]が十八重ほどにもなっているほどむくむくしていたからだし、また泣き喚くことは極めて稀だったからだ。しかし、絶えずうんこを垂れてはいた。》第7章 p53

 「しかし」て。さようなら、私の“葡萄酒”の世界。

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