2006/04/26

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その2


[前回…]

 きのう書いた分をいま読み返して思ったのは、とっとと読めよ自分、ということで、たしかに能書きばかりぐだぐだうるさかった。読み終えてもいない本を「古典である」「有名である」と騒ぐのはみっともない。どうせなら私は、実際に読み終えたうえで「古典だ」「有名だ」と言いたい。いや、そんな動機だったか?
 しかし、「古典だから」「有名だから」といって読むのは愚かだ、という一見まっとうそうな考え方も実は愚かであって、なぜなら、私はもちろんおそらくはこのブログを読んでいるあなたも、すでに十代の少年少女ではないのだし――ああ、とっとと読めよ自分。

 そこで第1巻である『第一之書 ガルガンチュワ物語』を開いてみると、目次の前に1ページ使ってこのような題辞があった。
   *   さ  ち     あ れ か し
  ΑΓΑΘΗ ΤγΧΗ
 *万有第五元素抽出者*アルコフリバス師の*旧作にかかる
  全巻これ*パンタグリュエリスムの書
   パンタグリュエルが父
*
大ガルガンチュワの世にも畏怖すべき生涯の物語

 できるだけ忠実に再現してみた。「*」印は訳者による註のマークである。最初にある謎の記号のようなもの(文字化けではない)はギリシャ文字だろうか。そこで「訳者略註」をめくってみると、はたして、説明されているのはこういうことだった。
《ΑΓΑΘΗ・ΤγΧΗ=一五三五年b版だけに見られる句。本訳稿は主として一五四二年e版系統のテクストによる。(解説を参照)》p261

 それは私も知っておかないといけないことなんだろうか、との疑念に駆られつつ、今度は「解説」を見てみれば、なんでも『ガルガンチュワ』のテクストには、ラブレーの生前に出版されたものだけでも11に及ぶ種類があって、そのそれぞれが様々な異同を抱えているらしい。それらを相手に気の遠くなるような校訂作業を続けているのがフランスの「ラブレー研究協会」(略称は「S・E・R」)に属する学者たちなのだ、と渡辺一夫は書いている。
《我々はS・E・R版を繙く時、フランスにおけるラブレー研究の地味なしかし脈々として絶えることのない伝統と、S・E・R協会の諸学者たちの麗しい協力とその不屈の努力とに心から敬意を表せざるを得ない。そこには個人の劇しい精神の燃焼があり、しかも個人の姓名はなかった。そして、その結果生まれたものは、決して大衆的とは言えない数巻のS・E・R版に外ならない。》p456

 引用してしまうくらいだから私はうっかり心を動かされてしまったわけだが、小声で付け加えておけば、そんなことはどうでもいいじゃないか。
 このような調子ではいっこうに読み進められない。私にとって『ガルガンチュワ』のテクストとは、いまキーボードの前に開いている岩波文庫版ただひとつである。どんなテクストも(とりわけ古典であれば)そうであるように、この渡辺訳も、研究が進めば進むほど、“唯一の、真の姿”が明らかになるどころか、逆に茫洋と拡散していく作品像を、ひとまず固定しておくために織られた、つぎはぎだらけの暫定的な複合体にすぎない。260ページ足らずで終わる本文の後ろにくっついた、240ページ以上の註・解説をぱらぱらめくるだけでも、そんなことが実感される。だから私も、原典をめぐる煩瑣な註の山には最大限の敬意を表しつつ、そこは気合を入れて読み飛ばすことにする。

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