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ウンベルト・エーコ『エーコの文学講義』(1994)

前回…] [目次

エーコの文学講義―小説の森散策
和田忠彦訳、岩波書店(1996)

《「私たちは関連性をでっちあげることはできません。あるのです」》

 このように断言する人物も出てくる『フーコーの振り子』において、解明しようという働きかけによって秘密が生まれているのだとしたら、まさに主人公たちの創作作業がテンプル騎士団の末裔を作りあげてしまったことになる。
《「間違いなく、その陰謀は存在している。これまでの歴史は、その失われたメッセージを復元させるための血みどろの戦いの結果にほかならない。我々には彼らの姿が見えないのだから、彼らは誰にも気づかれずに我々のまわりを徘徊しているのに違いない」》

 何かについての物語をつくることがその存在を生む、という展開は、一見逆のような気がしても、書かれたものは存在してしまうという文章表現の素朴な原理(こことか参照)からすれば、ごくストレートな帰結ではないか。
 まるでこのことを説明するために書かれたようなエピソードを収めているのが『エーコの文学講義』である。

 これはエーコの講演をまとめたもので、小説をはじめとする物語の読み解きかたを教えてくれる本だ。物語論の入門書として類まれなくらい手際よく、しかも、そういった入門書から洩れがちな「そんなことを学ぶ理由」の説明として、エーコなりの信念が語られている。
 人間が生きていくうえではどうしたって現実を物語化する能力が必要になる。しかしいっぽう、粗雑な物語にもおそろしい力が宿りうる。14世紀に端を発するある物語は、手記や書簡、大衆小説、ゴシップ紙の中で徐々に形を整え、20世紀にいたり“シオンの議定書”として結実した。これがもたらした災厄たるや……という話だが、しかし、
《わたしたちは、小説の森を散策したおかげで、小説という虚構が現実の人生を侵食するメカニズムを理解することができたのです。 […] こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を産み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となりうるのです。》p202、太字は引用者

 人間はついに物語の外部には立てないのだから、せめて外部に立とうと努めることをやめてはならない、と、たぶんエーコはそういっている。物語論とは相対化の技法なのかもしれない。
 念のためいっておくと、エーコの真剣さは「すべては物語なんだよ」みたいなうつけた物言いの対極にある。なのにこの日記の文章は物語という語をひどく杜撰に使っており、エーコにはほんと申し訳ない。『エーコの文学講義』はとてもいい本なので読んでみてください。
 で、続く。
…続き


エーコの文学講義―小説の森散策エーコの文学講義―小説の森散策
(1996/05)
ウンベルト・エーコ

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