2006/03/31

どこかにいってしまった物たち

 ぜったい部屋にあるはずの物が見つからないという不可解な現象を、私たちはどう考えればいいのだろう。

 もう1週間前にリチャード・パワーズ本人を見て、ひさしぶりに『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み返す――のはさすがに時間がかかるから、あの小説の出版(2000年初夏)に合わせて「文學界」で企画された、パワーズをめぐる座談会の記録を読み、好き放題に引用して並べてみたいと思ったのだった。というのも、あれはメンツがたいへん豪華な座談会で、訳者の柴田元幸高橋源一郎若島正、そして佐藤亜紀という、私にとっては夢のような顔合わせ。小説の組み立てを若島正が分析すれば、高橋源一郎はパワーズとピンチョンを比較して、佐藤亜紀が構成美をたたえる。文芸誌の単発企画なので、掲載後なんの本にも収録されていないのがもったいない、そんな座談会だった。記憶では。

 ところが、その大事なコピーが見つからない。
 私はその「文學界」を買って持っていたのだが、引越しの際に誤ってゴミに出してしまったことにあとで気がつき、図書館まで行ってバックナンバーからコピーしてきたのだった。それが2年くらい前。で、それから今までの間に、パワーズ読んだ、面白かった、と言ってきた人にコピーして渡したおぼえが何回かある。いくら自分的に豪華とはいえそんなに頻繁に読み返していたわけではなかったが、見た瞬間にそれが何かわかるのだから捨てるはずがないし、私の部屋は“探す”という行為が満足にできないほど散らかっているわけでもない。むしろ神経質なので、各種のコピーやら紙類を置いておく場所も決まっている。なのに、そこにない。消えている。本棚、押入れ、ダンボール、6畳の部屋のどこをどう探しても見つからない。探すのをやめても見つからない。繰り返すが、捨てるはずはないのだ。この部屋にないはずがない。探し忘れているような場所もない。それなのに。
 そういえば、ある年長の知り合いは、このような“あるはずのものがどうしても見つからない”事態を何かひねった言い方で表現してやろうと考えた挙句、「使ってあげないと、物は消えていく。必要とされていないことが自分でわかるのかもしれない」と口にした。一瞬、「不思議っ子にでもなったつもりかへえ」と思わされたが、言っている内容は当たり前である。用のない物は探したりしないんだから、見つからないのはいつでも必要な物である。しかし、こういった“ひねったつもりで、実はストレートなところに着地している、本人は気づいていない”という全体の流れが私はかなり好きだ。ちなみに私が部屋でよくなくすのは、ハサミ、テレビやビデオのリモコン、携帯電話の順で、これらはみんなよく使うのに、目を離した隙に行方をくらます。使われるだけでは飽きたらず、私の気を引こうとしているのかも知れない。不思議っ子にでもなったつもりか 話がそれた。
 近所の桜も満開になったこないだの日曜日、「パワーズ、パワーズ」と意地になってそこらじゅうをひっくり返した結果は、部屋じゅうに埃が舞い上がるばかりで、片付けるのに大掃除をする羽目になった。もともと、探したりしなければ、“見つからない”事態にも陥らなかった。これはつまり、探したからなくなったということだろうかと考えながら、日が落ちるころには、こたつぶとんをたたんでふとん袋に封印するほどの勢いで掃除をした。例年、だらだらとゴールデンウィーク前後まで出しっぱなしにしてあるこたつが、今年はもうない。1ヵ月以上早い。おかげで、寒さの戻ってきたこの数日ですっかり風邪を引いた。いまはマフラーを巻いてキーボードを叩いている。なにひとつうまくいかない。だいたい、どうして日曜の出来事を金曜夜の日記に書いているのか。今日に至っても、座談会のコピーは見つからないままである。3月の更新回数は12回だった。

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